2012年1月−革命家孫文とペナン島

 三民主義を唱え、中国では「国父」とも呼ばれている孫文は、清朝打倒を目的に革命資金を確保するため世界中を周り、1911年の辛亥革命前の短期間にペナン島に住んでいた。今回は孫文のマレー半島での活動とその影響について探ってみることにする。

マレー半島訪問のきっかけ

 孫文はシンガポールを含めてマレー半島を十数回訪れている。シンガポールを初めて訪れたのは1900年。日本の革命家で孫文を生涯にわたって支援した宮崎滔天が海峡植民地政府に逮捕され、救出に来た時に初めて足を踏み入れた。宮崎は清朝体制を維持して改革しようとする保皇派の康有為との連携を模索するために訪れたが、逆に刺客と間違えられたのだった。

 孫文は05年に東京で中国同盟会を創設。東南アジアに散らばる華人から資金を集めて活動を広げるため、華人の多いシンガポールに06年に支部を開設した。その足でクアラルンプールやイポー、スレンバンなども周った。ペナンにも同年末に支部が開設され、以後、インドネシアなど各地に支部をつくった。

 一方で、孫文は07年に同盟会の本部がある日本を離れる。日本政府が清朝から圧力をかけられたためだが、孫文はその足でベトナムのハノイに向かう。このときから同盟会の活動拠点は東南アジアに移るが、孫文は当初、ベトナムを本拠地とする計画をもっていた。しかし、清朝から追い討ちをかけられ、宗主国フランスからも国外追放の措置を受け、やむなくシンガポールへ。英語に堪能だった孫文は、各地への交通通信網がしっかりしていることなどを考慮し、08年にシンガポールを東南アジアの本拠地とした。

ペナンでの活動

 孫文の革命運動は、世界各地の華人の間でも展開されたが、清朝を擁護する反孫文派も各地に存在した。07〜08年に中国で孫文による武装蜂起が失敗すると、東京で反孫文派が勢いづき、その運動は各地に影響してくる。

 孫文とともに中国同盟会を立ち上げ、その後孫文の方針などに反発して離反した陶成章は08年に東南アジア各地を訪問。同盟会があるシンガポールやインドネシアなどで反孫文運動を展開した。

 一方、孫文は09〜10年に資金集めのため欧米を周り、その後日本に到着したが、2週間後に強制退去させられ、シンガポールに移動。しかし、到着すると、すでに反孫文派の勢いが大勢を占めており、活動が困難な状態に陥った。熟慮の結果、1週間後に同盟会の本拠地をペナンに移すこととした。

 ペナンがあまり反孫文派の影響を受けていないことや国際港のため通信網が整備されていることなどが本拠地を移す決め手となった。孫文は会員の再登録など組織強化に努め、1910年11月13日には家族5人が暮らすジョージタウンのダトー・クラマット通りの自宅で側近と「ペナン会議」を開く。「中国の同志は国のために命を犠牲にしているが、華人は資金提供でのみ国を救える」と説得力のある演説を行い、2日後にもペナンの華人を集めた会合で同じような強い調子の演説で、感銘を受けた参加者から次々と資金提供を受け、新たな武装蜂起のための資金獲得目標額10万海峡ドルのうち8000海峡ドルが即座に集まった。

 しかし、孫文はその数週間後に海峡植民地政府から追放を受け、再び欧米に向かう。ペナンには約4ヵ月の滞在だったが、「ペナン会議」で決まった武装蜂起はその後、1911年4月の広州黄花崗蜂起として結実。この蜂起のためにマレー半島の華人が出した資金は、獲得資金の総額の4分の1に達した。蜂起は多数の死者を出して失敗したが、この蜂起は半年後に起こる辛亥革命へと繋がっていく。

華人への影響

 孫文によるマレー半島の革命運動が、地元の華人に与えた政治的な影響は大きい。

 ペナンの華人の大部分にあたる中下層の労働者たちは、ペナンにある清朝の領事館の監視の目があるにもかかわらず、数ヵ月分の給与を孫文に提供するなどして活動に没頭するものもいた。家族もおらず、孤独に働いていた彼らの故郷に対する思いを孫文は巧みに掴み、華人社会をまとめあげていった。

 孫文が来る前までマレー半島の華人のアイデンティティーは出身地と言語別に違っていたが、孫文の運動を契機にその意識を一つにし、「中国人」としての民族主義を覚醒することに成功。ペナンだけでなく、マレー半島全体で、遠く離れた故郷のことを思い、華人の意識を一つにしたという功績は、その後、華人の間で本格的な政治活動を促していく。第二次世界大戦後には華人としてまとまった一つの民族としてマラヤ連邦独立にも貢献することになる。

葉一洋

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