2014年5月-クアラルンプールの起源

マレーシアの首都、クアラルンプール(KL*)。この街はスズ鉱山と共に発達したが、あまりその街の発展については知られていない。今回はこの街の起こりとマレー半島の一大中心地になった発展史を紐解く。

街の始まり

19世紀のマレー半島はスズの一大生産輸出の地だった。マレー半島のスズ生産は各地で15世紀からマレー人の手で細々と行われており、現在のKLの中心を流れるクラン川上流でも採掘されていた。1820年代にマレー人の23村(人口約1500人)のうち8村がスズ採掘をしていたようだ。

その後、スズを大量に産出できる新技術が取り入れられ、中国人らがルクトなど各地で積極的に採掘。さらなる鉱山を発掘しようとクラン領主ラジャ・アブドラは1857年、中国人労働者87人をクラン川上流に送り、彼らは同川とゴンバック川の合流地点に下船。そこが現在のムスジット・ジャメで、諸説あるが、泥の合流地点の意味でKLと名付けられた。中国人一行はそこからジャングルを切り開いて、3〜4キロほど進み、現在のアンパン地区に鉱床を発見。スズ生産を進めたものの、1ヵ月以内にマラリアが原因で69人が死亡した。KLの本格的な発展は59年からだ。アンパン地区に物資提供のため、スマトラ島北部のマンダイリン族出身の商人スタン・プアサとルクトからの客家人2人が店舗を開設。川の合流地点辺りのみをKLと称した小さな町は、スマトラ人と中国人が多く居住し、以後ここを中心に街は発展する。

葉亞来(ヤップアーロイ)の登場

初期のKLは、現在のムスジット・ジャメ近くの通りLeboh Pasar BesarとLeboh Ampangの交差地点にあった市場が中心地だった。そこから採掘場につながるJalan AmpangやJalan Pudu、Jalan Petalingが敷かれた。

そして、KLの発展に大きく寄与する葉亞来が、中国人社会の代表者として3代目カピタン・チナに1868年に就任。クランの統治を巡る内紛と中国人同士の抗争が複雑に連動したセランゴール内戦の真っ只中とあって、就任当時から難しい舵取りを迫られた。この内戦でスズ鉱山の活動は停止し、KLは内戦が終わる74年頃までに3回の焼き討ちに遭った。

内戦収束後、荒廃しきったKLの立て直しのため、葉はまず鉱山活動を再開させる。道路を再建し、さらにクランやダマンサラ地区にも道をつなぎ、経済活性化を促した。KLの復興費用は、ほとんどが葉自身の多額の借金によるもので、この時期の葉の生活は惨憺たるものであった。英国植民地政府も葉の負債額の多さを心配するほどだった。しかし、79年にはスズの国際価格が大幅に上昇。鉱山も再び活気に溢れ、彼の負債は激減した。

79年のKLの人口はわずかに2330人程度。この小さな街が活況を取り戻し、経済の中心地になったことから、英国植民地政府は80年にセランゴールの都を沈滞するクランからKLに移転し、英国理事官も駐在。しかし、81年には大火事が発生し、木造建築物からなる街はほとんどが消失。英国植民地政府は葉にレンガ造りの建物にするよう要請し、レンガ製造場として現在のBrickfields地区が生まれた。

96年にはマレー連合州が創設。KLはその首都となり、現在に至るまでマレー半島の中心都市となっている。

*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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