2014年7月-マラッカ-琉球交流史

15世紀初めにマレー半島に出現したマラッカ王国。港市国家として栄えた同王国は、東南アジアの一大交易国家として繁栄した。その交易相手は中東やインド、中国と様々だったが、琉球王国も交易していた。今回はこの交流史をたどってみる。

琉球王国と朝貢

琉球王国は1429年から1879年までの450年間、最盛期には沖縄諸島や奄美群島、先島諸島を統治していた王国だ。14世紀の沖縄本島には北部、中部、南部の3つの勢力があり、1429年にこれを統一して琉球王国を建国したのが初代王の尚巴志(しょうはし)だった。

王国の成立以前の1372年には中国の明王朝の使者が中部の中山政権のもとに現れ、この政権が明王朝に朝貢しはじめたのをきっかけに尚氏の統一政権も継承して明にほぼ毎年朝貢していった。

明王朝はこの頃すでに倭寇禁圧や密輸貿易の取り締まりを目的として海禁政策を実施。これにより、中国人商人は海外でビジネスを展開できなくなったが、琉球にとってはこれが大きなビジネスチャンスとなった。

交易とマラッカ

琉球は明王朝に朝貢する際、現在の福建省福州に寄港。琉球は馬や硫黄、織物、珊瑚などを輸出して福州で売り、中国商品を仕入れてアジア各地に転売する、いわば中継貿易を行っていた。海禁政策で中国商品が出回らない状況で、琉球はこれを手に入れたいアジア各地に輸出していき、莫大な利益を上げていった。一大交易国家マラッカ王国にも琉球船が必然的に寄港することになった。

琉球の貿易船がマラッカに初めて現れたのは1463年。以後、マラッカが1511年にポルトガルに占領されて崩壊するまで18回来航している。琉球王国はその成立時からシャム(現在のタイ)と最も頻繁に往来していたが、マラッカはその次に多かった。

マラッカ王に謁見するには公式文書が必要であったが、その作成に携わったのは福建省の中国人だった。王国時代には、現在の那覇近くの久米地区には同省出身の中国人が多く住み、王国の外交や海外貿易、造船、航海技術を担当。朝貢する際には船に同行し、各地で通訳としても貿易に従事した。琉球王からマラッカ王への公文書はマレー語ではなく、中国語で書かれ、海禁政策で帰れなくなった中国人らがマラッカ王のもとにもおり、彼らを通してやりとりが行われた。

琉球から東南アジアに向かう船は風の影響で太陰暦の8月から11月に出発。中国福建に寄港した後は安南(ベトナム)やシャムからスマトラ島パレンバンやジャワ島スンダクラパ(現在のジャカルタ)などか、またはマレー半島のパタニやマラッカに立ち寄った。琉球からマラッカまでの航海日数は約50日だったという。琉球船は中国で磁器類や布類、銅、ミョウバン、じゃ香などを買い込んでマラッカなどへ。反対にマラッカなどでは胡椒などの香辛料や蘇木(そぼく)、スズ、白檀、沈香(じんこう)、水銀、樹脂などを手に入れ、中国や日本に輸出した。

1511年にマラッカがポルトガルに陥落した後、琉球はパタニやアチェの王国に交易場所を移動。しかし、尚元王の時代(1557〜1572)に中国や日本のみの貿易に限定し、それ以後は東南アジアとはほとんど交流がなくなった。 *本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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