2014年9月-ダトー・オンの軌跡

マレーシア現代史のなかであまり注目されていない政治家がいる。ダトー・オン・ジャーファル(以下、オンと略)だ。現在の与党統一マレー国民組織(UMNO)の創設者として有名だが、それ以外についてはあまり知られていない。今回は彼の軌跡を辿る。

政治家になる以前

オンは1895年にジョホール王国の初代首相を父にトルコ系の母の子として生まれ、15人の兄弟姉妹がいた。同王国のスルタン・イブラヒムにも可愛がられ、7歳で英国に留学。16歳の時から王国政府で事務研修生として働き始めた。以後、様々な職を歴任し、1917年にはジョホール軍の士官候補生に就く。しかし、兵士の悲惨な環境などを見て、シンガポールの英語紙にその実情を投稿した。これを読んだスルタンは激怒し、彼を解雇。その後数年間、シンガポールで漁民として生活した。

その後、スルタンはオンを事務能力の高さから呼び戻したものの、26年に今度はスルタンとオンの妹との結婚にオンが反対したことからオンは再び解雇された。シンガポールに再び移り、36年まで3つの新聞の編集者として活躍し、ここでもスルタンの臣民への不正義に対する批判を続けた。この新聞紙上の批判は伝統的なスルタン支配に対して大きな疑問をマレー人の間に投げかけた。

UMNOの創設

36年には、オンの大衆への影響力をスルタンが鑑み、呼び戻してジョホール州議員に任命。オンはジョホール内の問題に対して自由に発言できることを条件にこれを受け入れた。ここに政治家ダトー・オンが誕生した。戦前の彼の功績は、教育を充実するため、現在もあるスルタン・イブラヒム奨学金の創設などであった。

第二次世界大戦中、日本軍の侵略で怖くなったスルタンは、米国でジョホール製品の展示会に参加していたオンを呼び戻し、側に置く。オンはまた、ジャングルの中で1万人以上の避難民を支援するなど弱者への配慮を忘れなかった。

オンをマレー人ナショナリストとして一躍有名にしたのが45年の英国によるマラヤ連合構想のときであった。マレー半島に植民地宗主国として復帰した英国は、スルタンの権限の縮小や移民も含めた連合下の全住民に平等に市民権を付与することなどを打ち出し、中国人に憎悪をもつマレー人を激怒させた。この構想は9人のスルタンだけで決定されたこともマレー人大衆の怒りを買った。オンは汎マラヤ・マレー会議を開催し、数万人の抗議集会を開催。マレー人社会の広範な支持を得て、同年3月にUMNO(マレー語略はPEKEMBAR)を創設して総裁に就任。英語名は45年に創設された国際連合(UN)を元に考案された。オンの功績はそれまで各州バラバラだったマレー人のアイデンティティーを覚醒させて、一つにまとめたことにあった。

しかし、オンは51年にUMNO総裁を辞任。独立に向けて非マレー人への党員拡大を主張したが、受け入れられなかったためだ。その後、全民族の統合を目指した独立党(IMP)を設立したが52年のクアラルンプール市議会選挙で惨敗。同党を解散してマレー人の利益を追求した国家党を創設したが、これにも支持を得られず、マラヤでの民族統合の難しさを象徴した出来事であった。

その後、独立後の59年の下院総選挙で当選したものの62年に死去。家族には嫡子のフセイン・オン(3代首相)や孫のヒシャムディン(現国防相)といった政治家を生み出している。*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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