2011年9月-多民族社会の形成
マレーシアは典型的な多民族社会であることは有名だ。しかし、この国が他国と違うのは、各民族が個々の共同体のなかで暮らし、インドネシアなどのように一つの民族として融合せずに国が成り立っているところにある。今回は、マレーシアの多民族社会がどのように形成されていったのかを追ってみることとする。
原型
多民族社会の原型は、1400年ごろに建国されたマラッカ王国にすでに見られた。王国は貿易を中心に栄え、現在のインドのタミール人やグジャラート人、アラブ人、現在のインドネシアのジャワ人やアチェ人、中国人、琉球人らも住んでいた。居住した貿易商人が多かったため、出身地による共同体が自然とできあがっていった。
多民族社会を象徴するように、王国には4人のシャーバンダル(Shahbandar)がいた。多民族が行き交う港湾の責任者として主な職務を遂行した。それと同時に、王国内に住む全民族を4つに分け、シャーバンダルはその4つに分類された民族の代表としての役割も担い、民族間の問題などが発生すると仲介役ともなった。
三大民族の社会形成
マラッカは1511年にポルトガルに占領され、オランダがその後に続き、英国はマレー半島全体を植民地化に置いた。しかし、この時代にもマレー人は主に河川沿いの村、中国人は町にと別々に生活していた。17世紀には、東海岸側やジョホールの主要の町は中国人が占めていた。
マレー半島には19世紀以降、大量の移民が到来し、多民族社会が本格的に形成された。それまでは貿易商人としてやってきたが、この頃に来た中国人やインド人は、低賃金労働者として従事した。缶詰などに使用するため、錫の需要は世界的に増加し、同時に同半島に来る中国人の数が激増。年間数万人から数十万人に上った。第二次世界大戦中の統計では同半島の中国人の人口はマレー人人口を大幅に上回った。また、自動車産業の飛躍に伴い、タイヤ向けのゴムの需要も増大し、同半島でゴム農園が拡大。インド人労働者の数も膨らみ、年間数万人が到着した。
この時代のマレー人は村、中国人は錫鉱山周辺の町、インド人はゴム農園にそれぞれ居住。職業や居住空間が違った上、言葉や生活習慣も違うことから各民族が接する空間がほとんどなかった。
第二次世界大戦時には日本軍がマレー半島を占領。軍政はここでも中国人敵視政策を実施した。マレー人とインド人に対しては反英闘争を支援したため、軍政下で民族同士の憎悪感が広まり、亀裂を深めた。
英国はマレー半島に戦後復帰し、マラヤ連合を46年に導入。同半島の主要民族を平等に扱う同連合は、スルタンの廃止や移民であった中国人やインド人に市民権の付与することを目的としたため、マレー人が猛反発。これを機に統一マレー人国民戦線(UMNO)が創設され、マレー人の意識を覚醒させた。同連合はマレー人の協力が得られないために48年に廃止されたが、民族同士の不信感は残ったままだった。同年からは中国人主体のマラヤ共産党が武力闘争を始め、マレー人の間では宗教と相容れないために中国人に対する敵対心も増した。
「マレーシア人」への意識
一方で民族間で融和を図ろうとする動きもあった。
戦中には人民統一戦線=マラヤ人民反日軍(PUTERA-AMCJA)による全民族を一つにしようとした新しい民族創出を模索した例がある。戦後にはUMNO創設者ダトー・オンが「独立にはすべての民族の協力の必要」と感じ、UMNOのメンバーをマレー人以外にも開放することを求めたが失敗。独立党(IMP)を創設させ、多民族による政党を目指した。しかし、52年のクアラルンプール市議会議員選挙でIMPは惨敗。選挙協力をしたUMNOとマラヤ華人協会(MCA)が圧勝し、その後、マラヤ・インド人会議(MIC)も加わり、連盟党が結成された。これにより、政治的には一民族一政党が確定し、以後この形態で政権が運営されることとなった。
57年のマラヤ連邦独立を経て、63年にはシンガポール、北ボルネオ(サバ)、サラワクを加えたマレーシア連邦が結成され、さらに複雑な多民族国家となったが、65年にシンガポールは追放される。当時のリー・クアンユー同州首相はサバとサワラクとも連携し、「マレーシア人のマレーシア」という全民族の平等な国家理念を唱えたことから、政府のマレー人優位の政権運営と対立し、これが追放された原因の一つともなった。
国内では民族間の経済格差が広がり、69年には人種暴動(5月13日事件)が発生。翌年に政府は、有名な新経済政策(ブミプトラ優遇政策)を打ち出した。これにより、マレー人が経済的に優遇される一方、中国人やインド人の間には不満が残り、「マレーシア人」意識の確立がさらに難しくなり、今に至っている。
2011/09/05 | カテゴリー:マレーシア摩訶不思議








