この人のセニョ~ムの記事一覧

2012年2月-この人のセニョ〜ム

おいしくて、体にいい料理をお客様にお出ししたい。

中村香織さん
1975年7月24日、石川県生まれ。鵬学園で調理師免許を取得。2002年、シンガポールへ渡り、日本食レストランで働くが、2006年に渡米、マクロビオティック専門学校のクシ・インスティチュートでインストラクターの資格を取得。2011年12月よりKLのマクロビオティック・レストラン「ウッズ」で調理長を務める。

 中村さんがマクロビオティック(以下マクロビ)に興味をもつきっかけとなったのは、ご自身の体調不良だった。

 「日本にいたときはなんともなかったのですが、シンガポールで働きはじめてから、なんとなく体調がすぐれず、しまいには手湿疹ができ、水を触ることもできなくなってしまいました。偶然書店で見つけた玄米の本からマクロビのことを知り、乳製品やサラダ、フルーツ中心だった食生活を、少しずつマクロビに変えていきました。」その2ヵ月後、「なんと手のかゆみはもちろん、小さい頃から患っていた花粉症の症状はじめ便秘や生理痛、肩こり、冷え性なども改善されているのに気づいたんです。」

 「シェフとしてお客さまに料理を出すのであれば、おいしいだけではなく、体にいい料理を食べてもらいたい」と、本格的にマクロビを勉強するために渡米。アメリカはマサチューセッツ州ベケットにあるマクロビ専門学校のクシ・インスティチュートへ。

 「生徒さんは世界各国から来ていて、日本人もたくさんいましたね。ただ、私のように調理師免許をもった人はあまりいなかった」ことが幸いして、インストラクターコースの半ばで、プライベート・シェフとしてメキシコで3週間、その後スウェーデンで6週間働く機会をもつことができた(中村さんはその後コースを修了する)。

 マクロビのプライベート・シェフとしては、マドンナについていた西邨まゆみさんが知られるが、中村さんも、プライベートシェフとして、「メキシコではマクロビ料理をメイドさんに教えて、スウェーデンでは子どもたちのお弁当をつくったり。マクロビの基本は〝その土地で採れる食材を使う〞ことが基本ですから、日本の食材や伝統料理にこだわらない、とてもフレキシブルなマクロビ料理ですよ。」

 昨年12月、マレーシアでは唯一、マクロビ料理の専門店「ウッズ」で、チーフシェフとして働くことになったが、「Facebookを通じて声をかけていただいて。多国籍料理が氾濫するなか、おいしくて体にいいマクロビ料理を提案していければと思っています。」

2012年02月05日
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2012年1月-この人のセニョ〜ム

漫画がほんとの出会い。小中学時代は「漫画家」になるのが夢でした

三好良一さん1955年6月27日、福岡県大牟田市生まれの長崎市育ち。立命館大学卒業。1983年にオイスカの農業指導員としてマレーシアへ派遣される。サバ州、インドネシア、コタバル、KLを経て2002年よりコタキナバル在住。現在は独立し環境コンサルタントとして、植林活動やCDM事業に従事する。

 写真は、本誌連載コラム「コタキナバル読書日記」の筆者、三好良一さん。昨年の12月、冒険小説家の船戸与一さんに同行し(旧日本軍のマレー上陸作戦の足跡を辿る取材)、東海岸のコタバル、トレンガヌ、クアンタンを周って、KLにお立ち寄りになった。KLは、5年ぶりだったそうで、「帰りの(コタキナバル行き)フライトまで5時間しかない」というタイトスケジュールのなか、「とんこつラーメンを食べること」と「本を買うこと」を予定通り終えて、ご満悦のところをデジカメで撮らせていただいた。

 三好さんは、農業指導と植林活動のスペシャリストだ。56歳になった今でも、植林ともなると約1週間もジャングルの中にこもることが少なくない。…と聞けば、さぞかし「頑強な体躯で物静かな人」とのイメージを抱きがちだが、目の前の三好さんはジャングルとは縁遠い華奢な体つきで、一度話し始めたら止まらない、とても話好きな方である。

 「小さい頃はひ弱で、それが嫌で中学時代、毎日腕立て伏せ50回などで体を鍛えていた」という三好さん、小・中学時代は漫画を描くのが得意で、「漫画家」になるのが夢だった。「(漫画家の)小林よしのりさんもやっていたそうですが、授業の合間の休み時間に絵描きノートに漫画を描くと、いつも数人の同級生が取り巻いていました。」

 その後興味の対象が漫画から映画(昼食代を貯めて映画館へ通いつめていた)、本へと移っていった。

 「高校時代、ミュンヘンオリンピック期間中でも、毎日ベトナム戦争が報道されていました。『なぜ?』という疑問が湧いてきたんです。」国際政治、歴史、哲学、ノンフィクションなどいろんなジャンルの本を読み始めたのは、ちょうどこの頃だった(なかでも本多勝一著『戦場の村』に衝撃を受けたという)。

 今でも常に10冊は併読しているという三好さん。コラムでは毎回、幅広いジャンルのなかから本を紹介してくださっているが、今年はどんな本が登場するのか楽しみである。

2012年01月05日
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2011年12月-この人のセニョ〜ム

マレーシア産、おいしい「アヤムカンポン・ピリカ」をつくりました!

高見進介さん1961年2月7日、北海道登別市生まれ。養鶏場オーナー。帯広畜産大学卒業。大手スーパーで6年間働いた後、青年海外協力隊に応募し、1989年にサバ州へ。地元農家に畜産指導を行う。その後JB、KLの日系企業に就職。2年前に独立し、養鶏場「アラム・ピリカ」を立ち上げる。

 KLから南へ車を走らせて約40分、南北高速道スレンバン出口を出て、さらに50分。のどかなカンポン風景が続く道をひたすら走り、たどり着いたのが「TiTi(知知港)」と呼ばれる小さなカンポン。高見さんの養鶏場「アラム・ピリカ」があるカンポンだ。高見さんは毎朝、自宅のあるカジャンからここまで1時間半かけて通勤(?)する。

 農場名の「アラム・ピリカ」とは、マレー語のアラム(自然の意)とアイヌ語のピリカ(美しいの意)をつなぎ合わせて命名した。マレーシアにありながら、高見さんの生まれ故郷、北海道も偲ばれるグッドネーミングに思わず感嘆。

 小さい頃から海外で農業(畜産)をやるのが夢だった。大学で家畜生産科学を専攻し、卒業後は南米行きを探っていたが、夢の糸がつながった先はマレーシアだった。

 「農業の企業化は難しいですが、需要はあります。付加価値をつけて差別化して販売すれば、やっていけるんじゃないかと。死ぬまでにやってみたい」と、人生半ばにして一念発起、勤めていた会社を2年前に辞めて、まずは土地探しからスタートした。

 「民家から500メートル以上離れていないといけないという規則があり、難航しました。」

 ようやく探し当てたのがここ、知知港で、広さ5エーカーの土地だ。平地は半分の2.5エーカー、中央に流れる小川の向こうはなだらかな山になっており、ドリアンやジャックフルーツ、ランブータン、チクなどの果樹が占有。

 半年かかってようやく「地鶏飼育許可証」がおり、3種類の試験用雛500羽を購入、平飼いで育てたが、「野犬やニシキヘビ、オオトカゲに食われてしまい、残ったのが250羽」などという災難に見舞われたものの、鶏の出来は上々。手づくりの「おからサイレージ」を飼料に、ストレスフリーの環境で育った鶏だからなのだろう。

 「アヤムカンポン・ピリカ」。高見さんの農場で育った鶏肉のブランド名。「ブロイラーより飼育期間が長いため、肉に旨みがあって適度な歯ごたえがあります。国内のレストランオーナーの皆さん、ぜひ一度試してみてください。」*アヤムカンポン・ピリカのお問い合わせは、

012-6813627 shinsuke3627@yahoo.co.jp 高見さんまで。

2011年12月05日
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2011年11月-この人のセニョ〜ム

東京の最新トレンドを発信、 アジアの人たちに広めていきたい

秋山将之さん1977年10月23日、三重県生まれ。

 「アキ・ヘアスタジオ」オーナー兼スタイリスト。大学卒業後スタイリストとして8年間のキャリアを積み、2006年、マレーシアへ。2011年10月、KL市内TTDIに海外2店舗目にあたる「アキ・ヘアスタジオ」をオープン。「あのアキがKLに帰ってきた!」と、日本人はじめローカルの間でも話題になったヘアスタイリストのアキこと、秋山将之さんがインタビューに応じてくれた。

 今年10月にオープンしたての秋山さんのサロン「アキ・ヘアスタジオ」を訪ねる。秋山さんにとってこのサロンは、タイで立ち上げた「ハル・ヘアスタジオ」に続く、海外2店舗目のプロデュースになる。「タイのサロンがオープンから2年でなんとか形になり、次はマレーシアだなと考えていました」と秋山さん。秋山さんは以前、3年ほどKLの日系サロンで働いていた経歴をもつ。

 「僕がKLに来たころは、市内の高級ショッピングモールで買い物するローカルの女性たちは、ノーメイクでビーサン&短パン姿がほとんどだったんですが、今は違いますよね。驚くほど『おしゃれ』になっていますよ。欧米系のストリートファッションブランド店や日本のユニクロもオープンしましたし、ファッションに関心をもつローカルが増えてきたように感じられます。」

 ファッションとヘアスタイルは連動する。だから「今こそビジネスチャンスあり」と、KLでの出店を決めた。

 「KLにいたころのお客さんや友人からの後押しも、もちろんありました。当時のお客さんのなかには、わざわざタイにまで足を運んでくれてましたから。」そうまでしてアキさんを求めるお客さんがいるとは…(実は、秋山さんにインタビューしながらカットしてもらいました)。今まで経験したことのない技でカットが続く。「これって、いわゆるカリスマ美容師の技?」と疑心暗鬼で鏡のなかの自分を見る。

 小さいころから、ファッションや髪型に興味とこだわりをもち続け、高校生のときにはすでに自身はもちろん、友人のヘアカットまでしていたという秋山さん。「仕上がりが気に入らないときは、『気に入らない』と言ってくださったほうが、スタイリストとしての励みになります」と秋山さんから言われ、「よっしゃー」と気構えでいたが、思いのほか大のお気に入りになってしまった。

 「将来の夢ですか? 『アキ』ブランドを確立して、スタイリストを目指すマレーシアの人たちを育てていきたい。東京の最新トレンドを発信していければいいなと思っています。」

2011年11月05日
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2011年10月-この人のセニョ〜ム

田中 靖彦 さん
1967年生まれ、東京都出身。

93年カリフォルニア州立大学ノースリッジ校を卒業。その後、ハリウッドの製作会社でインハウス・ライターとして活躍。現在は日米に加え、アジア諸国で脚本/プロダクション講習を手掛けながら、自社「42nd Pictures」で、TV・劇場映画の製作を行っている。製作作品に「Lari, Sayang, Lari (TVシリーズ)」「Kinaboleh」「Rush」「Transit」がある。Website: http://www.42ndpictures.com

 衛星放送局アストロ・プリマ(105)で、この10月23日午後8時から放映されるドラマ『ラリ・サヤン・ラリ』は、マレーシア初の日本人による作品である。これを監督したのは、映画の都ハリウッドで学び、日米で脚本家/監督として活躍する田中靖彦さんだ。

 アジアでの脚本家育成にかかわっていた田中さんは、マレーシア人の妻との出会いもあり、09年当地の国立映像開発公社(FINAS)の講師となったのをきっかけにプロダクション会社「42nd Pictures」を設立。今回の作品製作にこぎつけた。

 田中さんの出発点は、「ハリウッドのような性描写や暴力なしでも面白い話は作れる」という挑戦心。しかし、田中さんが目にしたのは、スタッフが複数の現場を掛けもちし、効率の悪い撮影現場だった。その原因となっている下請けのプロダクションへの丸投という業界のしきたりを受け入れず、製作のスタイルに合ったスタッフを雇うという流儀を通した。

 ところが、当地の表現に対する制限という壁が立ちはだかる。『ロミオとジュリエット』風に設定したバルコニー越しの求愛シーンも、イスラム教の倫理的に好ましくないため、庭先でのシーンに変更されるなど、製作者としての〝洗礼〞も受ける。それでも脚本さえしっかりしていれば、役者は十分に力を発揮してくれるという大きな手ごたえを得た。

 『ラリ・サヤン・ラリ』は、古典『ロメオとジュリエット』の恋愛劇に、60年代のテレビ・シリーズ『逃亡者』のサスペンス色を盛り込んだ作品だ。田中さんは、「マレーシアでは、アクション作品と見られるぐらいのテンポのよい逃亡劇に仕上がった」と言う。また、「ストーリーも飽きさせない展開」と脚本のプロとしての自信をうかがわせる。

 今後も『ラリ・サヤン・ラリ』の続編シリーズ、劇場映画作品など、プロジェクトが控えている。「『当地を理解しない外国人が、ちょっと来て、撮った作品だ』と判断してほしくない。ここは自分の第3の故郷になった。長い付き合いになる」と語り、今後もマレーシアへの理解を進めながら製作活動をする覚悟だ。

2011年10月05日
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2011年9月-この人のセニョ~ム

レイモンド・ンさん

1966年11月7日、香港生まれ。「えん・グループ」代表。8歳のとき、テーラーを営む両親とともに沖縄県宜野湾市に移り住む。アメリカの大学を卒業後、システムエンジニアとして東京、千葉を経てシンガポールに駐在する。33歳で独立、弟夫妻とともにレストラン事業を立ち上げる。。

食は語る、結ぶ、広がるマレーシアは将来性があると思います。

さる7月29日、クアラルンプール市内中心地区にあるショッピングモール「パビリオン」に「日本」をテーマにした「トーキョーストリート」がオープンした。そのトーキョーストリートの玄関口にある「えん銀座カフェ」は、昨今マレーシアでもトレンドになりつつあるカフェ&ベーカリースタイルのレストランだが、「うちは日本のカフェメニューを取り揃えていますから、しっかり食事もできますよ」と流暢な日本語で答えてくれたレイモンドさん。レイモンドさんは、シンガポール、香港をはじめジャカルタ、マカオ、上海、沖縄で22店舗のレストランを経営する「えん・グループ」の代表を務める。

グループ名の「えん」とは聞きなれない名前だが、シンガポールでは沖縄風居酒屋の草分けとして知られ、現在は居酒屋のほか創作和食レストラン、グリル&ダイニングバー、カレーレストランなどを展開する。「えん銀座カフェ」は同グループの23店舗目に当たり、マレーシア第一号店にして同グループ初のカフェ&ベーカリースタイルのレストランだ。

レイモンドさんは香港生まれの沖縄育ち。小さいときから広東語と日本語、英語が自然に飛び交う環境で育ったせいか、「自分でも何人(なにじん)か分からない」と言う。だからなのか、異国人に対する考え方はとても柔軟だ。

「(海外でのビジネス展開では)バランス感覚とコミュニケーションづくりが必要だと思います。インターナショナルな環境で育ったから、外(ソト)の土地も理解できるんでしょうか。現地の人たちと一緒に仕事をして、理解し合いながら一緒に商売をすることが肝心だと思います。」

それにしてもレイモンドさんの人脈の広さには驚かされる。「えん銀座カフェ」のベーカリーを担当するシェフはフランスの有名ベーカリーに15年いたフランス人で、カフェを担当するバリスタは10年のキャリアをもつ日本人、メニューづくりは日本人のフードコーディネーター…。「ファミリーと友人たちでつくりあげた店」だとレイモンドさん。えんとは「宴・縁・円」からつけられたのだそうだ。

2011年09月05日
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2011年8月-この人のセニョ~ム

伊藤敏広さんブーランジェ。1961年2月13日、山形県生まれ。25歳のときJICAに応募、ホンジュラスで3年間、パンとお菓子作りを教える。帰国後はベーカリー開業のプロデュースに携わり、日本全国にある「石窯パン工房」はその一つ。2010年よりクアラルンプール在住。

アジアで日本と変わらない、「おいしいパン屋」をつくっていきたい  

 ベーカリー&カフェ「Levain(ルバン)」。KL近郊に住んでいる方なら、一度はその名を聞いたことがあるだろう。週末ともなれば開店するや、瞬く間に席が埋まってしまうほどの人気のお店だ。「日本人がやっているらしい」との噂を耳にしたが、なんと意外にも、今年5月にオープンしたばかりの、同じくKL市内(タマンデサ)にあるベーカリー&カフェ「フィセル」の伊藤さんがその仕掛け人でもあった。

 「売れなければパンじゃない。お客さんが喜んで買ってくれるパン屋」を信条とする伊藤さん。日本では、スペインから取り寄せた石窯を使った「石窯パン工房」をプロデュースし、そのパン工房を全国に広めたキャリアをもつ。

 天然酵母を使った生地を、石窯の耐熱レンガから出る遠赤外線で焼き上げた「表面はパリッ、中身はしっとり&ふっくら」の石窯パン。果たして、ここマレーシアでもできるのだろうか。

 「成功させないと次がないという使命感がありましたから、最初は怖かったですよ。おいしいパンができるのだろうか?ってね。」

  日本のおいしいパンをマレーシアで。市場調査や材料の調達、さらにその調達できる材料を使ったパン製法を確立するまでに半年を費やした。

 「例えば小麦粉。マレーシアの小麦粉は目が粗いので、工夫しないとおいしく仕上がらないんです。」

こうして「ルバン」は昨年4月にオープン、現在、一日1500人以上が来店する人気ぶり。「ルバン」に続く「フィセル」も開いてから半年も経たないというのに、すでに第二の「ルバン」の地位を築くほどの賑わいをみせている。

 夢は「アジアでおいしいパン屋があちこちにできること」。近々インドネシアでも店をオープンする予定だ。

 マレーシアの魅力を聞くと、「素晴らしい国です。なぜ日本がマレーシアの真似をしないのかと、思いますよ。多民族でありながら互いを尊重して暮らしているモデル国じゃないですか。『いい加減』な国じゃなくて、『いい、加減』な国ですね。」 

2011年08月05日
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2011年7月-この人のセニョ~ム

佐藤勝泰さん1945年3月7日、旧満州国生まれ。大学で「建築デザイン」を専攻。建築設計事務所に就職。その後独立し事務所を経営。45歳で大学教授となり工学博士号を取得。07年に退職するが、その間カナダの大学で客員教授も勤めた。同年10月よりマレーシアのペナン島でロングステイを始める。

ペナンの人は親切ですね。絵を描くことで友だちの輪が広がりました 

 ペナン島ジョージタウンにあるアートギャラリー「アイランド・ギャラリー」で、生まれて初めての個展を開いたという佐藤勝泰さんを訪ねた。佐藤さんは当地のロングステイビザ(MM2H)を取得し、2年半前から奥さまの道子さんと一緒にペナンに住んでいらっしゃる。

 住み始めてから毎週土曜日の3時間はスケッチの時間に当て、世界遺産に指定されたジョージタウンの街を描き続けるアーティストだ。

 「道路脇に座ってスケッチをしている姿が珍しかったのか、通りがかりの人たちが立ち止まっては、覗き込んで行くんですよ。そのうち、『また、あの日本人がスケッチしている』とでも思ったのでしょうか、近寄ってきて話しかけてくれるようになりました。」

 ペナン人は好奇心旺盛でフレンドリーな人が多い? こうして佐藤さんのペナンでの「友だちの輪」が広がっていく。今回の初個展も、友だちの、そのまた友だちが紹介してくれたお陰だと、佐藤さんは言う。さらに、「フェイスブックを通じて知り合った友人が応援してくれて、どんどんサポーターが増えてきたんです。」

 定年までは、建築家・大学教授として、北海道を拠点にカナダ、北欧、東南アジアで調査・研究を行った。当時のテーマは「寒地住宅」。「いまや北海道の冬は本土よりも暖かいって知っていますか?」そう、佐藤さんこそ、北海道に「暖かい住宅」を提案し、導入した建築家なのである。

 「東南アジアにも住宅の調査に何度か来ました。寒地と熱帯地域とは180度違うように見えますが、視点を変えると、熱帯の建築様式が参考になる点もあるんですよ…」と、佐藤さんから図解で説明を受けるが、さすが、アーティスト。サラサラっと描いた絵にホレボレ…。

 現職時代にカナダや北欧、アメリカ、オーストラリア、東南アジア一帯を渡り歩いた佐藤さんが、第二の人生の場として選んだペナン島。その魅力を聞くと、「かつてイギリスの植民地ではあったものの西洋の色があまり感じられず、中国人の世界で、アジア人同志の気楽さがある。英語はいい加減でも通じるし、なんといっても人が親切なのがいいですね。」

2011年07月05日
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2011年6月-この人のセニョ~ム


斉藤敏規さん「喫茶紅葉亭」店主。1968年3月21日生まれ、大阪出身。大学卒業後、表面処理業界の会社で15年間、システムエンジニアとして働く。2007年、ペナンのジョージタウンに「喫茶紅葉亭」をオープン。

 

 

人生一度しかない、リスクを背負って何かやりたい

 

 「味はいいし、女の子がめちゃカワイイ…」と、ペナンに住む知人から聞き、「喫茶紅葉亭」を訪ねると、確かに、ウエイトレスの女の子全員が、レースのついたエプロンを着て、笑顔で応対してくれる。一瞬、「アンナミラーズ」風の印象を受けたが、メニューを見ると食事のセットメニューからお酒のつまみまで、全100種類以上を揃える、本格的日本食レストランだ。今回取材を申し込み、「自分は外には出ない方針だ」と言われたが、後日快諾してくれた店主の斉藤さんが、店の奥から出てきてくれた。

 キャスケット帽がトレードマークの斉藤さん。大学では電子工学を専攻、卒業後はシステムエンジニアとしてずっと理数系畑を歩き、37歳のときに脱サラ。ペナン出身の奥さまの地元で喫茶店を開くことを決意する。システムエンジニアから喫茶店経営へ、180度異なる業種への転進で、一からのスタートを切ることになったが、

 「エンジニアをやっていても、毎年技術が変わるので、一から勉強しないといけないんですね。だから私にとっては、エンジニアも飲食業も同じことです」と斉藤さん。

 根っからの勉強好き。「やるなら日本でやるのと同じレベルの高さで勝負したい」と、飲食関係の本を2,30冊読みこなし、また日本の食品衛生責任者の資格も取得した。

 「ケーキ屋さんのイメージの喫茶店が原点でした。それと、笑顔でお客に接するウエイトレスのいる店。あとは味で勝負のメニューづくり。自分が感じたことをベースに、来た人に喜んでもらえる店づくりを目指しました。」

 2007年にジョージタウンのフットン通りに店舗をみつけ、店のフロアや厨房の設計からインテリアまで、すべて一人で手がけた。ここにも、エンジニア時代の職人としてのこだわりが光る。開店してからは口コミで少しずつ知られるようになったものの、「2年間は利益も出ず、休む暇もなかった。苦しかったですね。何度壁をなぐったことか…」。しかし4年目を迎える今では、「ペナン一」と言われるメニュー(味噌ラーメンにカツカレー、お好み焼き)もでき、固定客も増えた。

 「コーヒーが趣味」と言う斉藤さんに、自慢のラ・マルゾッコ製エスプレッソマシンで入れたイリーのカプチーノをごちそうになる。心温まる、職人級の味でした。

2011年06月01日
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2011年5月-この人のセニョ~ム

田畑常敬(じょうけい)さん

寿司屋「美島」店主。1955年12月、鹿児島県生まれ。高校卒業後、東京千住にある老舗寿司屋に住み込みで板前修業を積む。2000年来馬。02年3月、KL市内のジャラン・インビ沿いに「美島」を開業。08年1月、現在のスリ・ハタマスに移転。

 

 

寿司は大好物ですから… 寿司屋をやっても、まかない食は寿司ですよ。 

 田畑さんが切り盛りする寿司屋は「美しい島」と書いて「美島(みしま)」と読む。田畑さんの故郷である奄美黄島を意味する。

 「私が生まれ育った『野見山』は地図にも載ってない小さな集落で、全戸数30しかないところでしたが、自然はいっぱいでね。小さいころから素潜りで海に潜っては、モリをついて魚を捕っていましたよ。趣味ではなく食べるためにですよ。」

 大自然のなかで自然の恵みを思い切り満喫して育った小学校時代。その後中学・高校のときにはバレーボール部に所属し、エース(中学時代)とセッター(高校時代)として活躍した経緯をもつ。

 が、思春期を迎え青春真っ只中の田畑さんには、しだいに、その美しい自然がただの「田舎」としてしか映らず、高校卒業と同時に島を離れる決意をする。東京の老舗寿司屋で板前修業を積む道を選んだ。その理由について、「小っちゃいころから寿司が大好きで、『寿司屋で働けば寿司を毎日食わせてやる』と言われたから」と冗談っぽく微笑む田畑さんだが、「好きこそものの上手なれ」で、8年に渡る厳しい修行時代を乗り越え、見事、寿司職人として独り立ちを果たす。

 「板前修業は、入ってしばらくは出前持ちや洗い場、ホールの掃除が主な仕事で労働時間は15時間。ほとんど立ち仕事でした。修行に入ったその寿司屋にはカウンター席が10席しかなくて、その後ろに若い衆(修業衆)が10人立ち、接客するんですが、接客の仕方も厳しく指導されましたね。」

 修業を終えた後は、都内にある寿司屋数件で寿司職人として寿司を握り、19年後の2002年、田畑さん46歳のとき、晴れて異国の地・マレーシアで寿司屋を開業。店名は十代のころ、あれほど嫌った故郷にちなんで「美島」とした。

 店内は何の飾り気もない「純日本風」の寿司屋。朴訥とした田畑さんが握る寿司を求めて、日本人ばかりかローカルの常連客の姿も見受けられる。

 「寿司屋をしていて楽しい事ですか?毎日大変ですが、寿司は毎日食べられます(笑)。帰国されたお客さんが年賀状をくださったりして、連絡をしてくれて、また訪ねてきてくれる。うれしいですね。」

2011年05月05日
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