マレーシア摩訶不思議の記事一覧

2012年2月−「マレーシア」という国名の誕生

1963年にマレーシア連邦が結成されて現在に至っているが、マレーシアという名称は実は19世紀から使われていた。今回は国名としての「マレーシア」の歴史に迫ってみる。

19世紀における使用

 「マレーシア」という呼称は、19世紀前半にはすでに英国では使われていたようだ。19世紀半ばにシンガポールで発刊された英字紙『ストレーツ・タイムズ』では1853年にはオランダ東インド会社船長の話を掲載し、「マレーシア」を何の説明もなく一ヵ所だけ使用。地理的な説明のなかの一節で使われ、おそらく読者にはどこを指していたか理解していたものとみえる。

 その10年後の「半島のアボリジニ」という題名の記事でも「マレーシア」という呼称がひょっこり出てくる。米国のキリスト教の布教団体関係者が書いたようで、記事には「マレー半島またはマレーシア」という表現で使われていた。

 また、英国の布教団体はジャウィやローマ字でのマレー語、中国語、タミール語などで発行された聖書を普及する聖書協会をシンガポールに置き、新聞に毎日のように出した同協会の広告でも「マレーシア」で布教活動を実施している旨を記載。19世紀の英語を読める階層のシンガポールの人たちはマレー半島のことをマレーシアと認識していたようだ。

 一方で、87年には北ボルネオ会社の提案で、英国領マラヤやシンガポール、サラワク、北ボルネオ(現在のサバ)を統合した「マレーシア連邦」構想と政治的な形でも現れてくる。

 英字紙『シンガポール・フリー・プレス』は1895年の記事のなかでインドの英字紙『マドラス・タイムズ』からの引用文として、「マレーシア連邦」という記事を掲載。インドでも「マレーシア」が使われていることが伺える。しかし、「連邦」は96年にマレー連合州という呼称になり、「マレーシア」は使われなかった。

国名への採用

 20世紀に入っても新聞上での「マレーシア」の使用頻度はあまり減らない。布教団体が一貫してこの呼称を使っていたが、一部では現在のインドネシアを含めた意味で「マレーシア」と呼んでいた。

 1932年には再び「マレーシア連邦」案が英国で議論になったがこれまた頓挫。第二次世界大戦が始まると、「マレーシア」の華僑による中国への送金や日本軍が「マレーシア」を占領し始めるなどの報道もされ、マレー半島のみまたはインドネシアを含めて混同して使用していた。56年になると、与党の統一マレー国民組織(UMNO)は独立後の国名について、「マレーシア」とマラッカ王国以前にマレー半島北部にあったとみられる王国「ランカスカ」の2つを提案。UMNOなどからなる連盟党の政治委員会は協議の結果、国名を「マレーシア」に決定するものの、当時のマラヤ華人協会(MCA)などが猛反対。国名は「マラヤ」にすべきとし、「国民的」議論となった。独立を付与する英国は、「マレーシア」にあまり好意的でなく、「マラヤ連邦」の国名で独立させる。それでも独立後のマラヤ連邦政府幹部は「マレーシア」を諦めたわけではない。61年に当時のラーマン首相がマレーシア連邦案を発表した際も「マレーシア」を使用。一部でこの国名の反対はあったものの、63年に結成される。これに伴いマレーシアは正式に国家名として誕生した。

お詫び:前号の文中で「華人」とあったのは「華僑」の誤りです。訂正してお詫びいたします。
*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、誌面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

2012年02月07日
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2012年1月−革命家孫文とペナン島

 三民主義を唱え、中国では「国父」とも呼ばれている孫文は、清朝打倒を目的に革命資金を確保するため世界中を周り、1911年の辛亥革命前の短期間にペナン島に住んでいた。今回は孫文のマレー半島での活動とその影響について探ってみることにする。

マレー半島訪問のきっかけ

 孫文はシンガポールを含めてマレー半島を十数回訪れている。シンガポールを初めて訪れたのは1900年。日本の革命家で孫文を生涯にわたって支援した宮崎滔天が海峡植民地政府に逮捕され、救出に来た時に初めて足を踏み入れた。宮崎は清朝体制を維持して改革しようとする保皇派の康有為との連携を模索するために訪れたが、逆に刺客と間違えられたのだった。

 孫文は05年に東京で中国同盟会を創設。東南アジアに散らばる華人から資金を集めて活動を広げるため、華人の多いシンガポールに06年に支部を開設した。その足でクアラルンプールやイポー、スレンバンなども周った。ペナンにも同年末に支部が開設され、以後、インドネシアなど各地に支部をつくった。

 一方で、孫文は07年に同盟会の本部がある日本を離れる。日本政府が清朝から圧力をかけられたためだが、孫文はその足でベトナムのハノイに向かう。このときから同盟会の活動拠点は東南アジアに移るが、孫文は当初、ベトナムを本拠地とする計画をもっていた。しかし、清朝から追い討ちをかけられ、宗主国フランスからも国外追放の措置を受け、やむなくシンガポールへ。英語に堪能だった孫文は、各地への交通通信網がしっかりしていることなどを考慮し、08年にシンガポールを東南アジアの本拠地とした。

ペナンでの活動

 孫文の革命運動は、世界各地の華人の間でも展開されたが、清朝を擁護する反孫文派も各地に存在した。07〜08年に中国で孫文による武装蜂起が失敗すると、東京で反孫文派が勢いづき、その運動は各地に影響してくる。

 孫文とともに中国同盟会を立ち上げ、その後孫文の方針などに反発して離反した陶成章は08年に東南アジア各地を訪問。同盟会があるシンガポールやインドネシアなどで反孫文運動を展開した。

 一方、孫文は09〜10年に資金集めのため欧米を周り、その後日本に到着したが、2週間後に強制退去させられ、シンガポールに移動。しかし、到着すると、すでに反孫文派の勢いが大勢を占めており、活動が困難な状態に陥った。熟慮の結果、1週間後に同盟会の本拠地をペナンに移すこととした。

 ペナンがあまり反孫文派の影響を受けていないことや国際港のため通信網が整備されていることなどが本拠地を移す決め手となった。孫文は会員の再登録など組織強化に努め、1910年11月13日には家族5人が暮らすジョージタウンのダトー・クラマット通りの自宅で側近と「ペナン会議」を開く。「中国の同志は国のために命を犠牲にしているが、華人は資金提供でのみ国を救える」と説得力のある演説を行い、2日後にもペナンの華人を集めた会合で同じような強い調子の演説で、感銘を受けた参加者から次々と資金提供を受け、新たな武装蜂起のための資金獲得目標額10万海峡ドルのうち8000海峡ドルが即座に集まった。

 しかし、孫文はその数週間後に海峡植民地政府から追放を受け、再び欧米に向かう。ペナンには約4ヵ月の滞在だったが、「ペナン会議」で決まった武装蜂起はその後、1911年4月の広州黄花崗蜂起として結実。この蜂起のためにマレー半島の華人が出した資金は、獲得資金の総額の4分の1に達した。蜂起は多数の死者を出して失敗したが、この蜂起は半年後に起こる辛亥革命へと繋がっていく。

華人への影響

 孫文によるマレー半島の革命運動が、地元の華人に与えた政治的な影響は大きい。

 ペナンの華人の大部分にあたる中下層の労働者たちは、ペナンにある清朝の領事館の監視の目があるにもかかわらず、数ヵ月分の給与を孫文に提供するなどして活動に没頭するものもいた。家族もおらず、孤独に働いていた彼らの故郷に対する思いを孫文は巧みに掴み、華人社会をまとめあげていった。

 孫文が来る前までマレー半島の華人のアイデンティティーは出身地と言語別に違っていたが、孫文の運動を契機にその意識を一つにし、「中国人」としての民族主義を覚醒することに成功。ペナンだけでなく、マレー半島全体で、遠く離れた故郷のことを思い、華人の意識を一つにしたという功績は、その後、華人の間で本格的な政治活動を促していく。第二次世界大戦後には華人としてまとまった一つの民族としてマラヤ連邦独立にも貢献することになる。

葉一洋

2012年01月05日
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2011年12月−ネグリ・スンビランの形成

 スマトラ島西部パダンを拠点とするミナンカバウ族。彼らはマラッカ海峡を経てマレー半島にわたり、小国をつくり上げた。それが現在のネグリ・スンビラン州だ。今回は彼らがマレー半島にやってきて、ネグリ・スンビランを形成した経緯を追う。

ミナンカバウ族とは

 ミナン語を話すミナンカバウ族はインドネシアのスマトラ島パダンを中心とする民族で、母系社会で成り立っていることで有名だ。土地や住居などの資産は母親から娘に相続される習慣をもつ。

 同族は「ムランタウ(Merantau)」という一種の出稼ぎの伝統もある。これは13歳を超えた少年が故郷を離れ、異郷の地で勉学や就職をして、資金を蓄えた成人後に故郷に錦を飾るというもの。もともとスマトラ島内だけだったがその後は島外も出稼ぎ場所の対象となった。

 敬虔なイスラム教徒でもあり、自尊心の強い同族の性格は外交的で社交性に長けている。こういった伝統もあるためか、知識人など優秀な人材をこれまで輩出しており、インドネシアのハッタ初代副大統領やシャフリル初代首相、革命家のタン・マラカなどインドネシア政界に影響を残した人物が多い。

スマトラ島からの移住と統治

 ミナンカバウ族がマレー半島に移住してきたのは、諸説あるが、16世紀ごろと見られる。ポルトガルの記録では、レンバウやナニン(現在はマラッカ州の地域)には16世紀初めにすでに同族が住んでいたとしている。マラッカから現在の州境のリンギ河を通じて、2地域に居を定めたのは、出稼ぎで錫の採掘と貿易のために来たとみられる。

 人口は周辺地域に徐々に膨らんだ。町も各地にでき、領主も現れる。この地域はジョホール王国の勢力圏であったが、同族から首長となる人物は出てこなかった。

 そんななか、スマトラ島シアク王国のラジャ・クチルがジョホール王国をのっとった。領主たちは同じ民族でもあることからか、ラジャ・クチルを支持。しかしラジャ・クチルは、マラッカ海峡一帯に勢力を持っていたブギス族に殺害されてしまい、領主たちはブギス族の報復を恐れた。そこで、領主代表らは故郷の王宮があるパガール・ルヨンに赴き、地域をまとめる首長を招くことにした。

 推薦されたラジャ2人がレンバウに別々に来たがすぐに帰国し、次にラジャ・メラワールが来た。彼はジョホール王国を訪れ、首長として承認を得た後にブギス族の軍勢を打ち破るなどし、現在のレンバウに「入城」。1773年に領主の集まりで彼は初代Yangdi-PertuanBesarとなり、周辺の9つの地域が連合して単一となり、以後、ネグリ・スンビランと呼ばれる。その後、王宮がスリ・ムナンティに建設された。

 しかし、錫の利権などが絡み、領主や土地の有力者同士などの争いは絶えなかった。ラジャ・メラワールの崩御後、後継者を巡って争いも起こり、領主らは再び故郷から首長を選んで連れてくる。この慣習は3代にわたり1824年まで続く。

再び統一へ

 3代目のラジャ・レンガンは崩御直前に嫡子を相続人として選んだものの、錫の利権などとも絡み、領主同士の争いがその後も続く。4代目が崩御した1861年にはネグリ・スンビランの連合体制が崩壊する。

 錫鉱山が多いスンガイ・ウジョン地区でも領主同士の争いは続き、英国の介入を招くきっかけとなった。英国はマレー半島の植民地経営の安定のために1874年に積極的に現地の介入を始める。ペラに介入した後にスンガイ・ウジョンの領主をシンガポールに招集。しかし、会議には英国の保護を訴えた領主の一人ダトー・クラナのみが出席し、英国は彼を同地区の首長とし、理事官も置くことに成功した。

 英国側はネグリ・スンビラン全体の支配を確立するため、61年に崩壊した連合体制の再構築にかかる。ほかのマレー諸国とは違い、スルタンがおらず、小さな地域に多くの領主が存在し、利権絡みなどで政治的に不安定であるため、この地域全体を一つに統合する必要性があった。6代目が88年に崩御してから徐々に各領主を説き伏せ、95年に連合体制を復元した。その地域は、レンバウ、ジョホル(Johol)、ウル・ムアル、イナス、グノン・パシール、トゥラチ、ジュンポル。これと同時に7代目トゥアンク・ムハンマドはネグリ・スンビラン全体のYangdi-PertuanBesarとなった。英国理事官が置かれたスンガイ・ウジョンとジュレブは98年にこの連合に加わった(地域名や範囲はその後変更されている)。98年の連合協定では、スンガイ・ウジョン、ジュレブ、ジョホル、レンバウの4地域の領主からネグリ・スンビランのYangdi-PertuanBesarを選出することを規定し、以後これにならっている。

 なお、1933年に8代目Yangdi-PertuanBesarとなったトゥアンク・アブドゥル・ラーマン(初代首相と同名)は、57年にマラヤ連邦独立時に初代国王に就任。現在、マレーシア紙幣に印刷されている人物である。また、ネグリ・スンビラン州のこの首長の選出の仕方は現在のマレーシア国王の輪番制の原型ともなっている。

葉一洋

2011年12月05日
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2011年11月−コタキナバルと鉄道

現在のコタキナバル市内 サバ州はカダザン族など20以上の少数民族が住み、1963年にマレーシア連邦に参加して現在に至っている。その州都コタキナバル(旧名ジェッセルトン)の建設は、ボルネオ島に唯一ある鉄道なしには語れない。今回は、コタキナバルと鉄道がどのように発展していったのかを概観する。

 

 

 

ガヤからジェッセルトンへ 

 現在のコタキナバルの対岸にあるガヤ島。英国側は1877年にブルネイのスルタンから同島を取得し、82年に英国の特許会社北ボルネオ会社が同島に拠点を置く。

 同社はここに税金を徴収する財政部や警察署などを設置。同社がガヤ島を拠点にすると、福建や潮州出身の中国人も住み始めた。25軒ほどの店舗が並び、彼らは燕の巣やタバコなどを香港やシンガポールに輸出していた。86年の島の人口は479人で、バジャウ族と中国人が多数を占めていた記録が残っている。

 しかし、同社が期待していたのとは裏腹に、島の土地は不毛であったことが分かり、島の南部で行われたサゴ栽培が失敗。また、島内には主な川がないことから、水の供給困難に直面し、生活に支障が出た。その上、97年には同社に抵抗する暴動が発生し、島はほぼ壊滅的な打撃を受けた。

 1898年には現在のコタキナバルの南西にあるビューフォートの町が建設された。当初は主にこの辺りでタバコの栽培が行われ、それを運搬することを目的として、この町から、まず港として機能したウェストンとの間で32キロほどの線路が敷かれた。

 一方で同社は、ウェストン-ビューフォート路線を延長した最終駅の候補地を探し始めた。ガヤ島は島であるが故に候補から落ち、代わりに現在のコタキナバルの北部にあるガンティアン地区が平地で海に面していることからここを最終駅とすることとした。

 しかし、線路敷設の工事を始めるにはマングローブの沼地が多く難航。また、港としては風が強すぎるために船の寄港も難しいとしてここも断念した。

 このため、99年に土地長官のヘンリー・ウォーカーは鉄道が敷設できる新町の建設地を新たに模索。その結果、バジャウ族の小さな漁村があった現在のコタキナバルのアピ・アピ地区周辺が選ばれた。そして、当時の北ボルネオ会社のチャールズ・ジェッセル副社長にちなみ、町の名前はジェッセルトンと命名された。

鉄道の開通とゴム産業の発達

 当初、当時の北ボルネオ会社の社長だったウィリアム・コウィーは、ブルネイに近い現在のシピタンからタワウ付近に鉄道を敷設することを検討。ボルネオは肥沃な土地で、金やコーヒーも採れると期待したが、またもや沼地が多く、莫大な資金が工事に必要であることがわかり、計画は頓挫した。

 その後、ウェストン-テノム間(約46キロ)の建設に入り、さらにビューフォートからジェッセルトンの線路工事が行われ、それぞれ1905年と1902年に完工した。

 北ボルネオではもともと砂糖やタピオカ、アヘン、サゴなどが栽培されたがことごとく失敗。しかし、タバコの栽培は成功し、また木材も北ボルネオでの20世紀以前の主要産業となっていた。

 一方で、20世紀に入るとゴム産業が北ボルネオでも栄える。1882年にすでにゴムは栽培され始めたようだが、実際に商業化するまでにはかなりの時間を要していた。

 北ボルネオ会社はゴム産業の発展を促すため、ゴム製品の輸出税の50年間の控除などを打ち出した。その結果、多くの投資家がゴム産業に投資していく。ゴム農園は主にテノムやビューフォート、ロック・カウィなど線路敷設周辺に次々とできあがった。これらすべての農園はゴム製品を鉄道でジェッセルトンに運び、そこから輸出していった。

 ジェッセルトンは1900年に同社の主要庁舎が建設され、1905年までには欧米人の住宅地をつなぐ現在のイスタナ通りとトゥンク・アブドゥル・ラーマン通りの主要道路ができた。また、ゴム産業の発展とともに人口も増加。小さな漁村だった同地の1911年の総人口は2686人に達し、うち約1600人を中国人が占めた。町周辺の人口も増え、同年の調査では8470人が住んでいた。

 ジェッセルトンは1910年代初期にはすでに北ボルネオで最大のゴム輸出の港として栄えた。ゴムとそれを運ぶ鉄道により大きく発展したジェッセルトンの名は、1963年のマレーシア連邦結成後、キナバル山にちなんで「コタキナバル=キナバル町」と改名された。 ボルネオ鉄道は第二次世界大戦中に日本軍により壊滅的に破壊され、戦後、10年ほどかけて復旧工事を行った。しかし、その後、道路が各地を結び交通が便利になったことと、鉄道の運営費が嵩んだことなどから次々と路線を廃止。2000年になってやっと北ボルネオ鉄道として復活し、改良などを経て現在に至っている。

葉一洋


2011年11月04日
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2011年10月−ココス諸島とクリスマス島のマレー人

題名の島の名前を聞いたことがあるだろうか。現在は両島とも豪州領となっているが、実はここは現在でもマレー人が多く住み、マレー社会が現存しているのだ。今回はこの両島の歴史を概観してみたい。

マレー人奴隷の島

 ココス諸島は、スマトラ島から約1000キロ南にいったインド洋上にあり、20以上からなる小さな諸島。現在の人口は600人弱で、民族構成をみるとマレー人が約7割占め、白人やジャワ人、中国人が残りを占める。

 ココス諸島は1609年にオランダの東インド会社のキーリング船長により発見された。ココスとはラテン語のココナツが由来とみえ、以後ココス・キーリング島と呼ばれるようになった。

 この無人島に人が住むようになるのは19世紀からだ。それまでにも上陸しようとする船長らがいたが、天候不順などで失敗。1824年にルコール船長が率いるフランス船が同島北部で座礁。乗組員が何とか同島にたどり着き、翌年に救助されたが、この時はじめて人が住むようになった。

 救助直後、英国東インド会社のジョン・クルニーズ・ロスが同島に上陸。上司でもあったアレクサンダー・ヘアに無人島の探索を命ぜられたようで、26年にアレクサンダーはマレー人ら奴隷約100人を連れて到着した。奴隷の多くは女性。このときからマレー語が同島で必然的に話されていった。彼は27年に家族とともに本格的に生活を始めたジョンとは仲違いをし、31年に離島。ジョンは彼の奴隷を引き取り、自給自足の生活を望んだジョンの島の統治が始まった。

 奴隷たちは主にパーム油生産に従事した。これをジョンはモーリシャス諸島やシンガポールに輸出して利益を上げていた。

 1836年には有名な『種の起源』を書いた自然科学者のダーウィンが訪問。マレー人らが奴隷として働いていることや豚やアヒルなどが飼われていたことも記している。

 ジョンは54年に死去。その後、島の経営は息子が引き継ぎ、5代150年にわたりロス一家が統治した。

 1878年に同島はセイロン(現在のスリランカ)の司法管轄となった。86年には、マレー半島のペラ州初代英国理事官となったバーチの息子が海峡植民地政府を代表してココス諸島を訪問。ロス一家は独自に貨幣を造り、輸入されたコメやコーヒー、タバコ、衣服などを売る店を独占し、高値で奴隷たちに販売していると記述。地元住民らは外部との接触が許されていないことや物価が高いことなどをバーチに苦情を呈した。この後、同島は海峡植民地の司法管轄となる。

 同島は電報中継局だったことから、日本軍が第二次世界大戦中に占領しようとしたが失敗。ロス一家は1978年まで同島を統治。1955年には豪州に管轄が移り、78年に豪州がこの島をロス一家から買い取り、現在に至っている。同島はマレー人が多数を占めることからマレー文化が色濃く残っている。一時期クアラルンプールとを結ぶ直行便もあったほど、マレーシアとのつながりは深く、交流も続いている。

採掘労働者でできた島

 スマトラ島から南に約500キロに位置するクリスマス島は、1615年の東インド会社のジョン・ミルワードが船上で発見したことが記録されている。命名は1643年12月25日にウィリアム・ミノスが通りかかったと言われている。

 その後、何度も上陸が試みられたが失敗し、1888年になって英国人と自然科学者が上陸に成功。そこで工業原料となるリン鉱が発見され、ただちに植民地政府に報告し、同年6月に英国領となった。ココス諸島のジョージ・クルーニーズ・ロスは91年にリン鉱採掘権を英国政府から得て、会社を設立。ココスのマレー人らとともに採掘を行い、95年からは輸出を開始。ジョージはココス諸島開発に注力するためにこの頃には引き上げていたようだ。

 98年には採掘労働者として数百人余りの広東人と、マレー半島やジャワ島からもマレー人が英国政府により送られた。マレー人はカンプン地区、中国人はプンサーン地区などに住み分けがされ、また、シーク教徒の警察官が治安維持にあたるなどマレー半島の状況とかなり酷似していた。

 リン鉱石は日本軍の標的となった。日本軍は空爆するなどして島を一時期占領する。1945年の終戦で、同島にも英国が復帰し、同島はシンガポールの管轄下となった。戦後、リン鉱採掘には英国、豪州、ニュージーランドが主に関わり、さらに採掘拡大でマレー半島から労働力を送るなどした。58年に豪州政府はシンガポールから同島を買収し、正式に豪州の領土となり、現在に至る。

 同島は現在約1500人が住み、中国人が人口の70%を占め、主に福建語と広東語が話されている。白人が20%、マレー人が10%で、マレーシアと同じように多民族が共存し、多言語が話されるという極めて面白い状況となっている。

葉一洋

 


2011年10月05日
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2011年9月-多民族社会の形成

 マレーシアは典型的な多民族社会であることは有名だ。しかし、この国が他国と違うのは、各民族が個々の共同体のなかで暮らし、インドネシアなどのように一つの民族として融合せずに国が成り立っているところにある。今回は、マレーシアの多民族社会がどのように形成されていったのかを追ってみることとする。 

 

 

原型

 多民族社会の原型は、1400年ごろに建国されたマラッカ王国にすでに見られた。王国は貿易を中心に栄え、現在のインドのタミール人やグジャラート人、アラブ人、現在のインドネシアのジャワ人やアチェ人、中国人、琉球人らも住んでいた。居住した貿易商人が多かったため、出身地による共同体が自然とできあがっていった。

 多民族社会を象徴するように、王国には4人のシャーバンダル(Shahbandar)がいた。多民族が行き交う港湾の責任者として主な職務を遂行した。それと同時に、王国内に住む全民族を4つに分け、シャーバンダルはその4つに分類された民族の代表としての役割も担い、民族間の問題などが発生すると仲介役ともなった。

三大民族の社会形成

 マラッカは1511年にポルトガルに占領され、オランダがその後に続き、英国はマレー半島全体を植民地化に置いた。しかし、この時代にもマレー人は主に河川沿いの村、中国人は町にと別々に生活していた。17世紀には、東海岸側やジョホールの主要の町は中国人が占めていた。

 マレー半島には19世紀以降、大量の移民が到来し、多民族社会が本格的に形成された。それまでは貿易商人としてやってきたが、この頃に来た中国人やインド人は、低賃金労働者として従事した。缶詰などに使用するため、錫の需要は世界的に増加し、同時に同半島に来る中国人の数が激増。年間数万人から数十万人に上った。第二次世界大戦中の統計では同半島の中国人の人口はマレー人人口を大幅に上回った。また、自動車産業の飛躍に伴い、タイヤ向けのゴムの需要も増大し、同半島でゴム農園が拡大。インド人労働者の数も膨らみ、年間数万人が到着した。

 この時代のマレー人は村、中国人は錫鉱山周辺の町、インド人はゴム農園にそれぞれ居住。職業や居住空間が違った上、言葉や生活習慣も違うことから各民族が接する空間がほとんどなかった。

 第二次世界大戦時には日本軍がマレー半島を占領。軍政はここでも中国人敵視政策を実施した。マレー人とインド人に対しては反英闘争を支援したため、軍政下で民族同士の憎悪感が広まり、亀裂を深めた。

 英国はマレー半島に戦後復帰し、マラヤ連合を46年に導入。同半島の主要民族を平等に扱う同連合は、スルタンの廃止や移民であった中国人やインド人に市民権の付与することを目的としたため、マレー人が猛反発。これを機に統一マレー人国民戦線(UMNO)が創設され、マレー人の意識を覚醒させた。同連合はマレー人の協力が得られないために48年に廃止されたが、民族同士の不信感は残ったままだった。同年からは中国人主体のマラヤ共産党が武力闘争を始め、マレー人の間では宗教と相容れないために中国人に対する敵対心も増した。

「マレーシア人」への意識

 一方で民族間で融和を図ろうとする動きもあった。

 戦中には人民統一戦線=マラヤ人民反日軍(PUTERA-AMCJA)による全民族を一つにしようとした新しい民族創出を模索した例がある。戦後にはUMNO創設者ダトー・オンが「独立にはすべての民族の協力の必要」と感じ、UMNOのメンバーをマレー人以外にも開放することを求めたが失敗。独立党(IMP)を創設させ、多民族による政党を目指した。しかし、52年のクアラルンプール市議会議員選挙でIMPは惨敗。選挙協力をしたUMNOとマラヤ華人協会(MCA)が圧勝し、その後、マラヤ・インド人会議(MIC)も加わり、連盟党が結成された。これにより、政治的には一民族一政党が確定し、以後この形態で政権が運営されることとなった。

 57年のマラヤ連邦独立を経て、63年にはシンガポール、北ボルネオ(サバ)、サラワクを加えたマレーシア連邦が結成され、さらに複雑な多民族国家となったが、65年にシンガポールは追放される。当時のリー・クアンユー同州首相はサバとサワラクとも連携し、「マレーシア人のマレーシア」という全民族の平等な国家理念を唱えたことから、政府のマレー人優位の政権運営と対立し、これが追放された原因の一つともなった。

 国内では民族間の経済格差が広がり、69年には人種暴動(5月13日事件)が発生。翌年に政府は、有名な新経済政策(ブミプトラ優遇政策)を打ち出した。これにより、マレー人が経済的に優遇される一方、中国人やインド人の間には不満が残り、「マレーシア人」意識の確立がさらに難しくなり、今に至っている。

葉一洋

 

2011年09月05日
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2011年8月-独立の父、トゥンク・アブドゥル・ラーマン

独立の父として有名な初代首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマン(1903〜90)。マレーシアの人たちの間では有名なのだが、彼に関してはあまり知られていない。今回は、57年のマラヤ連邦独立までの彼の人生を見ることにする。

幼少時の留学と英語

 ラーマンはケダのスルタンの子として誕生。母はビルマ人の血を引くタイ人で、スルタンの8人の妻の第六夫人だった。この母親の元で第4子として生まれ、ほかに兄弟姉妹が12人おり、異母兄弟は46人いたという。

 母親が子どもたちを主に世話し、精神的な病があった、王宮に住む父親とは別に暮らし、毎週金曜礼拝の後にスルタンが母子を訪れていた。

 ラーマンは、アロースターの英語学校に通っていたが、10歳のときにバンコクに留学。これはケダが長くタイの支配下にあったことなどが深く関わっている。兄とともに3年ほど過ごし、タイ語にも通じ、ラーマンは独立後の国会で「タイは自分にとって第二の故郷だ」と答えるほどタイへの親近感を示している。

 ケダに帰ってきた彼はその後、ペナンの「フリースクール」に入る。ここでも英語中心の教育を受けた。1920年頃にケダでは英国留学の奨学金を支給し始め、その最初の学生としてラーマンが選ばれ、17歳のときにケンブリッジ大学に留学した。

政治絵の目覚め

 ケダの摂政の指示でラーマンは同大学法学部に入る。しかし、まったく法律に興味がなかった彼は毎日のようにスポーツに明け暮れた。学生の大半は英国人だったが、タイ人が数人おり、彼らともよく遊んでいた。また、スポーツカーを運転しており、10年間の在学中にスピード違反など28回も捕まるなどやんちゃぶりを発揮している。

 入学してから6年後、ラーマンは帰郷することを決意。しかし、摂政から卒業するよう説得され、数ヵ月後に再び英国の地を踏む。この頃になるとマレー人の学生も増え始めたが、まったく団結力がないことに懸念をもち、「英国マレー人協会」を設立。30人ばかりが参加し、自身は事務局長に就任した。また、入寮許可が下りないなどアジア人として差別されることもよくあり、反帝国主義の考えも育ち始め、徐々に政治に目覚めた。

 しかし、相次ぐ試験の失敗などで、指導教官の勧めでラーマンは数年後に故郷に戻り、ケダの役人として働き始めた。

本格的な政治活動と独立へ

 戻ったラーマンはケダ役人として灌漑や貧困対策などに関わった。日本軍の占領下で、44年にラーマンの仲間が独立と社会主義を密かに掲げたSaberkasを結成。政党として許可は下りないため、協同組合店として表向きは活動し始めた。ラーマンは後援者となったものの、内心は独立はまだ時期尚早と考えていた。

 戦後にマラヤ連合が導入されると、Saberkasのメンバーは反英活動として武力で訴えることを主張。しかし、これを拒否したラーマンは後援者を降りた。一方でケダの貧困状況などを鑑み、改革断行には今一度法律の勉強の必要性を強く感じ、46年1月に英国に再留学する。

 この時期の英国滞在で、彼の右腕となるラザクと出会う。二人は意気投合し、マラヤの華人やインド人を迎え、独立には民族融和の重要性を唱え始める。

 48年にラーマンは、45歳にして法学試験に合格し、ついに卒業できることとなった。足掛け20年以上をかけて大学を卒業した。翌年故郷に戻り、ケダで次席検事として働き始めたものの、あまり満足する仕事をこなしていなかったようだ。

 そんななか、51年にマレー人統一国民戦線(UMNO)のダトー・オン総裁が辞職することになり、次期総裁としてラーマンに白羽の矢が立った。ラーマンとダトー・オンは、すでに帰国したラザクを推したが、同氏は固辞。ラザクら側近はラーマンを粘り強く説得し、ラーマンは最終的に立候補した。投票の結果、ラーマンはほか2候補を抑えて、圧勝した。

 UMNOは当時、ジョホールのダトー・オンの自宅を本部としていたため、別に本部を移すなどしたため、資金繰りは非常に厳しく、ラーマンは自宅や土地を売るなどして私財を投じた。

 独立するには華人との連合が極めて重要と認識し、ラーマンは52年の地方選を前にマラヤ華人協会(MCA)との選挙協力を取りつけた。この体制は、現在の国民戦線(BN)の先駆けとなり、民族別の政党による連合の基礎を築いた。その後、多くの地方選で勝利し、55年の立法評議会選挙も圧勝。マラヤ連邦の首席大臣(ChiefMinister)に任じられた後、56年に独立交渉団を率いて英国から独立を承認され、57年8月31日にマラヤ連邦が独立した。 反帝主義を掲げていたものの、留学時代からの英国人らの人脈と、寛大で誰にでもフレンドリーなラーマンの性格が独立を導いた要因はかなり大きく、彼が強い指導力を発揮したからこそ独立が実現したといえる。

葉一洋

2011年08月05日
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カテゴリ: マレーシア摩訶不思議

2011年7月-錫鉱山開発の影で―アヘン産業の盛衰

19世紀にマレー半島に大量にやってきた中国人のほとんどが錫鉱山で働いていたことは有名だ。しかし、その一方で中国人の流入によりアヘン産業がマレー半島でも盛んになったことはあまり知られていない。今回は、このアヘン産業について追ってみることにする。

東西貿易の影響

 

 アヘンはもともと地中海東部沿岸が原産地。16世紀後半からはインドのムガール帝国が専売品とし、この頃からポルトガルが中国に販売を開始し、インドと中国の貿易ルートが開通した。ただ、最初は薬剤が主な用途だった。

 英国の東インド会社がアジアでの貿易を独占し始めると、18世紀半ばまでに同社はアヘン貿易もほしいままにした。英国が同貿易に力を入れた背景には、当時の清王朝から茶や陶磁器などが大量に輸入されたが、英国から清に輸出するものは限られていたため輸入超過が発生。資本貯蓄のため、銀流出の抑制政策の一環としてインドからアヘンを清に流すことで超過分を相殺することとした。

 これら貿易の影響はマレー半島にも現れた。17世紀にオランダがアヘンを持ち込み、当時の記録ではすでにマレー人の間でタバコにアヘンを混ぜて吸っている姿が描かれている。18世紀にはセランゴールやペラ、東海岸側でもアヘン中毒者が見受けられたと報告されている。

アヘン産業の勃興と蔓延

 英国がマレー半島を植民地化した19世紀に入ると、アヘンも蔓延し始めた。

 1819年にシンガポールが自由港として建設されると、ペナンとともにインドから中国への中継地点として変貌していった。輸入されたアヘンは港周辺だけでなく、マレー半島内陸にまで徐々に広がっていった。

 マレー半島には当時、胡椒やガンビールを栽培する中国人が渡来し、1840年代以降には錫鉱山の人足として年間数万人以上がやって来た。農作業や鉱山のいずれの仕事をするにしても、町から離れた山奥で炎天下のなか毎日未開のジャングルを切り開いて農耕や採掘をした。妻子や娯楽もない環境のなかで中国人たちは、心身を癒すためにアヘンに手を出していった。また、労働環境は最悪で、すぐに病気になる労働者も多く、アヘンを吸うことで病気から身を守る薬としても利用されていた。このため、当時の中国人労働者のうち10人に8人はアヘンを常用していたと記録されている。死亡率も年間当たり1000人中200人前後に上っていた。

 アヘンの購入者は主に低賃金の中国人労働者であったが、常用していたためにアヘン産業は多くの利益が出た。このため、農業や鉱業への中国人投資家は、アヘン販売も同時に行い、労働者を「薬漬け」にして巨額の富を得ていた。ちなみに、アヘン販売店は銀行の役割も司っており、東南アジアで20世紀以降に銀行を開設した起業家の多くが、元アヘン業者であったのは偶然ではない。

 シンガポールを筆頭に自由港をもつ海峡植民地政府は、歳入を上げるためにこのアヘン産業に目をつけた。アヘンに対する課税やアヘン販売権制度などを取り入れ、歳入を著しく増加させ、植民地経営は円滑にいき始めた。海峡植民地ではそれぞれ総歳入のうち50%以上がアヘン関連からの収入であり、政府もアヘンがなければ経営が成り立たなかった。

利益中毒の植民地政府

 アヘンは中毒性が強く、死に至らせることがよく知られるが、19世紀の植民地政府官僚もこのことについては十分認識していた。シンガポールを「発見」したラッフルズは、歳入増加を目的としてアヘンを販売することに反対していたとされる。19世紀初めからアヘン撲滅の声はあったが、1874年に英国で「アヘン貿易廃止協会」が設立され、インド―中国間のアヘン貿易廃止運動が盛り上がった。海峡植民地政府にも圧力がかかるが、同政府はアヘン撲滅で密輸の横行や中国人の離散などを引き起こすとしてこれを拒否。実際はアヘンなしでは、経営できないことから強く反対した。

 しかし、1906年に米国がフィリピンでアヘン取引の全面禁止の決定をしたことが、躊躇する英国に態度を改めさせた。同年に英国はインド―中国間のアヘン貿易を10年以内に廃止することを目的とし、年間10%ずつ取引量を削減することで清王朝と合意。これを受けてか、ペナンやクアラルンプールでもアヘン撲滅の運動が盛り上がった。

 そして、1910年から植民地政府は、取引量削減目標を達成するためアヘンを専売品に切り替えたが、清王朝との取り決めは反故にした。しかし、不況などで1925年までにはアヘン関連からの歳入は激減。日本軍によるマレー半島占領後の1943年になってやっと英国は国際的な撲滅運動に押された形で、同国内とその植民地、保護領でのアヘン売買を全面的に禁止する措置を出し、戦後はマレー半島からアヘンの姿が消えていった。

 このように見ていくと、錫産業の発展に伴い、アヘンは植民地政府と労働者にとって生きていく上での「必需品」であった。マレー半島ではアヘンなくしては大規模な錫産業の発展はなかったと言ってもいいだろう。

葉一洋

2011年07月05日
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2011年6月-マレー半島への中国人の渡来

中国人は19世紀になってマレー半島に本格的にやってきたのだが、実はそれ以前から断続的に渡来していた。今回は、マレー半島とその周辺に19世紀以前にやってきた中国人たちの足跡をまとめてみることにする。

初期の渡来

 中国の記録では、1349年にすでにシンガポールに若干の中国人らが居住していた。1377年には、スマトラ島を中心としたスリウィジャヤ王国内に中国人らがすでに住んでいたことも分かっている。現在の中国の広東省や福建省からの中国人であったという。

 しかし、人数などは明らかになっていない。1400年ごろに建国されたマラッカ王国には廈門(アモイ)や福建などから来た中国人が住んでいたことが確認され、1511年以降のポルトガル占領時代には約7400人が生活をしていた。貿易商人が多数を占めていたとみられる。しかし、1641年にオランダによるマラッカの支配後は中国人に対して厳しい措置を取ったため、マラッカから多くの中国人が脱出。それでも小売店や農業を営む中国人が300〜400人ほどいた。1678年には詳しい記録が残っており、男性220人、女性277人、子ども219人(それぞれ奴隷を含む)がマラッカ市内にいたうえ、その郊外にも400人以上が住んでいた。

17世紀の中国人たち

 17世紀に入ると、中国人たちの数は徐々に増加していく。

 英国の貿易商人ハミルトンは1719年に東海岸のクアラ・トレンガヌを訪問。年3回ほど中国からジャンク船が来ており、「人口の半分は中国人だった」と記録している。ハミルトンはジョホールでも中国人に会っており、約1000人が住んでいたと報告している。

 また、クランタンにも多数の中国人が目撃されており、そのほとんどが福建出身の商人や客家人の金鉱労働者だったという。ブルネイでも1776年に胡椒を栽培する中国人が多数いたとの記録があるが、それぞれ人数については伝えられていない。

 一方、マラッカではオランダの厳しい政策により18世紀の中国人の人口は激減。1760年には1390人、1795年には数百人を数えるのみで、ペナン島が英国に領有されて以降、そちらに逃げていったようだ。

 英国のフランシス・ライトは、1786年にペナン島の領有を宣言後、真っ先に訪れたのが中国人で、漁網を贈呈して来たと記している。ほぼ無人のペナン島はその後、人口が増え、8年後には中国人だけで約3000人に達した。その後、貿易商人のほか、胡椒や香辛料を栽培する中国人も増加し、19世紀に入るとその数は二倍以上に膨れ上がった。

本格的な渡来に向けて

 ここでマレー半島周辺における中国人の渡来足跡を追ってみる。特に際立って多かったのは、スマトラ島東部に位置するバンカ島(現在はインドネシア領)だ。ここでは1710年に錫が発見され、客家人を中心とした採掘労働者が1770年代にはすでに約3万人に達していたという。

 バンカ島は錫発見当初から中国がすでに目をつけており、中国国内で採掘される錫では需要が賄いきれないことから、同島の錫の輸入に努める。輸入された錫は鏡や急須、茶の容器、貨幣などに使われた。また、同島が勢力下にあった当時のパレンバンのスルタン家に入ったイスラーム教徒の中国人が、錫採掘技術を中国から持ち込み、中国でも人材募集を行って錫開発を積極的に行ったという。パレンバンはすでに現在の広州との貿易が盛んで、労働者らはジャンク船に乗ってやってきた。

 こういった状況を鑑み、1770年代にはオランダ東インド会社は、錫採掘をすでに行っていたペラ州のスルタンに対して、採掘労働者として中国人を雇い入れるよう助言した記録も残っている。

 さらに、1780年にはシンガポールの近くにあるビンタン島でも胡椒やガンビールを栽培する中国人がおり、その数は2万5000人に達していた。

 この時代にはバンカ島やビンタン島、現在のリャウ諸島、ボルネオ西部だけで計10万人に上る中国人が鉱業や農業に従事していた。

 もともと中国人は外部に移動する文化はなかったとの指摘もあるが、それではなぜ大量に海外に移動していったのだろうか。

 18世紀は中国全体で人口が激増した時代だった。1760〜80年の20年間で広東では2倍、福建では3倍に膨れ上がったと見積もられている。これに加え、広東では干ばつと飢饉が13〜30年にそれぞれ一回づつ、福建では8〜11年にそれぞれ一回づつ襲い、庶民の多くは極貧に喘いでいた。広東と福建は東南アジア各地との貿易港が古来からいくつもあり、ここから海外の情報が入り、賃金の話題も庶民の間に伝わっていたようだ。さらに、同業の錫の採掘や農業の仕事が東南アジアでできることも魅力があったのではないだろうか。中国人らは国内を移動することよりも海外に生活の糧を一時的に求めて外に出て行った。

 そして、19世紀に入り、ヨーロッパ各国の植民地化がアジア全域で始まり、さらに様々な要因が絡んで17〜18世紀よりも多くの中国人が東南アジア各地にやってきたのである。

葉一洋

2011年06月01日
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2011年5月-イスラームの教育と意識の浸透度

マレーシアは独立以来、国教としてイスラーム教が採用されている。マレー人はほとんどといっていいほどイスラーム教を信仰しているが、歴史的にみた場合、イスラーム教の到来当初からその教えはしっかりと伝達されたのだろうか。今回はイスラーム教がどのように浸透していったのかをイスラーム教育の変遷とともに見ることにする。

到来と前近代の教育

 マレー半島へのイスラーム教は14世紀のマラッカ時代にアラブ商人が伝播したとされる。当時のマラッカ王はアラブとの商業を円滑化させるために自ら信者となった。また、東海岸のトレンガヌでは1303年のジャウィ碑文が見つかっており、これら地域でもすでにマラッカ王国以前にイスラーム化が進んでいたともみられる。

 しかし、実際庶民のレベルではイスラーム教はしっかりと普及したのであろうか。到来以降、各地にモスクや小礼拝所(スラウ)ができ、ここでコーランの読み方などが「教師」により教えられた。「教師」は、おそらく到来当初はアラブやインド出身のイスラーム教徒であったとみられる。その後、マレー人の間でもメッカに巡礼するものも現れ、「ハジ」として地元では尊敬され、教育を施すことになった。しかし、ここでの教育とは、単にアラビア文字の読み書きやコーランを暗誦させるだけにとどまっていた。

 マレー半島北部では、イスラーム学校の一種である「ポンドック(Pondok)」が17世紀ごろから徐々に広がる。しかし、ここでも当時はほとんどといっていいほどアラビア語の読み書きなどを中心に教えていたとみえ、コーランを読めるレベルにまでしか教授できなかったとみられる。

 つまり、イスラーム教が伝播されてから18〜19世紀あたりに至るまで、基本的な教えは普及したが、聖典『コーラン』などを体系的には教授されず、紙もほとんど普及していなかった時代にコーランの暗誦に頼るというやり方のみで、庶民の間には正確な知識が伝わっていなかったのではないだろうか。

近代に入って

 近代に入ると、マレー半島ではイスラーム教への教育と意識の変化が徐々に出てくる。

 19世紀後半にウェレズリー州に赴任したある英国人は、この頃のイスラーム教育について「ほとんどの男子生徒は書くよりもコーランのアラビア語を暗誦させられているだけだ」と記録している。以後、植民地政府は、ミッション系や公立のマレー語学校を設立し、マレー人の教育に力を入れていくものの、イスラーム教育についてはほとんど手をつけなかった。

 しかし、イスラーム教徒自身が徐々に教育に目を向けるようになる。

 ペナンやシンガポール在住のアラブ人らは20世紀に入り、ペナンで最初のイスラーム学校であるマドラサを設立させた。イスラーム教をしっかりと学ばせることを目的として設立され、以後各地にできていく。

 また、マレー半島でイスラーム知識人としての「ウラマー」が19世紀になって本格的に各地に出現し始め、モスクなどでもウラマーによる説教や教育が徐々に行われていった。

 このほか、マレー半島でイスラーム教育がこの時期に発展していったのには、印刷技術が導入されたことも大きい。印刷機がアラブ世界でも導入され、19世紀中ごろからインドやエジプト、トルコでジャウィ表記のマレー語の印刷が始まり、その後メッカでも印刷される。イスラーム世界のオスマン帝国は、現在のタイ南部のパタニ出身のウラマーにマレー語関連の出版を任せたために同出身のウラマーによる書籍などが多く印刷された。その後、イスラーム教育用の教科書や一般書籍なども印刷されるに至った。これらの印刷部数はまだまだ少なかったものの、マレー半島でのイスラーム教育に少なからず影響を与えた。

独立後の教育の確立

 1956年にイスラーム宗教学校に関する委員会が報告書を政府に提出。それによると、これら学校は各学校で教育方針が違い、学年が設定されておらず、教育を受けていない教師が教授している上、アラビア語とコーランの暗誦に終始していると報告し、歴史や算数など一般教育科目がほとんど教えられていなかったという。

 57年の独立後、新政府はこの報告書を元にイスラーム教育にも力を注ぐ。新たに設立された国民学校にイスラーム教育が採用され、すべての国民学校は統一したカリキュラムのもとで、マレー語やイスラームに関する知識を教えていくというもので、国民化政策の一貫となった。

 また、財政的に寄付などで賄われているイスラーム学校に対して、政府は助成金を支給し、広い一般教育も含めた教育を施して発展させ、イスラーム教育の組織化を図っていった。

 独立後の国民国家の創設に伴い、イスラーム教育は大いに発展し、イスラーム教徒の宗教意識も強くなっていった。

 19世紀を含めた独立前の反英闘争がイスラーム教が核とならなかったことをみると、当時の宗教意識はそれほど強くなく、独立後の国民国家が意識をより深化させたといってもいいだろう。

葉一洋

2011年05月05日
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