2020年2月-この人のセニョ〜ム 柴田 紀和さん

柴田 紀和さん
世界を雄飛する寿司職人。どこにいても、
「どれだけゆとりをもてるか」が人生の決め手

1969年東京都葛飾区生まれ。A型。中学卒業と同時に板前修業のため寿司屋に5年間勤める。年に一度の海外社員旅行がきっかけで外国に興味をもつ。87年から香港に5年、一年間帰国し、再び香港で3年。96年より2年間ジンバブエ、南アフリカで5年、中国の広州で6年間勤めた後、日本へ一旦帰国。リーマンショックの影響で板前職に就けず、六本木の高級焼肉店で2年、ペンキ職人1年、再び板前を1年間勤めた後、14年1月に来馬。パートナーと共に「鮨和」を昨年12月にオープンした。

 

香港、アフリカ、中国、日本、マレーシア・・・。どの国のどの店でどんな情勢でも、契約満了を迎えるまできちんと勤め上げる。「何があっても紹介してくれた方の顔を潰してはいけないからね」。職人気質で頑なな言葉とは裏腹に、屈託ない優しい笑顔だ。フランス料理のコックに憧れたが、紹介された就職先は洋食屋。それならばと、姉や両親に背中を押され、板前・寿司職人を志した。5年間の修業を経て一人前になった頃、夢を叶えるべく、向かったのは香港。地元の人に教える立場から「天狗」になった時期もあったが、それでは人が付いてこないということを痛感したという。 一旦、日本へ帰国するも再び香港へ。出資者と折り合いがつかず資金不足のまま先輩が始めた店。働けど働けど給料はほどんどもらえなかった。ある日、日本からの電話で姉の危篤を知る。ありったけの売上金を先輩から渡されるが、飛行機代にもならない。一攫千金マカオへ!負け続ける。時間がない。ツキが回ってきた!戦利金を手にヘリコプターで香港へ、飛行機で日本へ。最愛の姉の意識があるうちに面会できたが、失った悲しみに耐えきれず、ジンバブエでの仕事を二つ返事で受けることに。年に一度ずつ冷凍・観物食材が日本から輸送される。醤油がなくなれば12時間車を走らせ南アフリカで調達、食材入手が困難な環境だった。国が経済危機に陥り、みんな帰国していくが、柴田さんは2年契約を満了。ウガンダ国籍の女性と出会い、後に彼女と結婚することとなる。南アフリカでは、世界首脳会議の食事を任され、たった一人で1日250食以上を作ったこともあった。 結婚。こども2人。広州では商売繁盛、安泰。しかしオーナーとの間にひずみが生じ日本へ。リーマンショックの影響で希望職につけず、家族は妻の祖国で暮らす。東日本大震災。日本に馴染みない家族を日本へ呼ぶのは厳しいと判断した。 「多民族国家で大らかな国柄なので、人種差別に悩むこともないだろう」と、マレーシアへ。家族と共に暮らすこと6年。昨年12月に「鮨和」をオープンした。「どこの国にいようがいっしょ。果たしたい目的をもっていれば、仕事も生活も苦労はない」。一つひとつの所作に無駄がなく、きちんきちんと丁寧に食材に接する。仕込みをしながら語ってくれた柴田さんの半生は、豪快で痛快で爽快だ。『フーテンじゃない、ハンサムな寅さん』と題し、本を出版したいほど。次々と飛び出すおもしろ噺。続きは今度、お鮨をいただきながら・・・。


 

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