2020年6月-この人のセニョ〜ム 小田 哲生さん

小田 哲生さん
他民族が共生するマレーシアだからこそ面白い。
早期退職して始めたカルチャースクール

1959年福岡県筑紫郡太宰府町(現在の太宰府市)生まれ。B型。幼稚園、小学校、中学校と太宰府天満宮のお膝元で教育を受け、福岡市内の高校を経て早稲田大学を卒業。83年日本電気(NEC)に入社、出張と駐在を合わせ会社員期間の約半数を海外で過ごす。1回目の駐在で10年間マレーシアに在住。二度目の赴任で現地法人の役員を1年間務めた後、早期退職。30年間の会社員生活に終止符を打ち、2013年に言語や文化を教える「ILOHAカルチャーセンター」を開業した。

クアラルンプールのバンサーで「ILOHAカルチャーセンター」を経営する小田さんは、元NECのマレーシア駐在員。80年代、日本の電気メーカーはこぞってマレーシアに進出し、マレーシアの北から南まで工場を設け、「当時は日系企業に勤めるのがマレーシア人の憧れと言われた時代でした」とルックイースト時代を懐かしむ。小田さんは会社員人生を通じて、二度マレーシアに赴任している。一度目の駐在は90年から10年間。住み始めた当時は田舎町で「KLのハイウェイは1本しかなく、周りはジャングル。タクシーはボロボロで、窓やドアが壊れてるなんてかわいいほう。足元は穴が空いていて下の道路が丸見えな車もあった。料金メーターさえ付いていないタクシーもあったが、ぼったくる運転手なんて一人もいなかったね。ほのぼのしていたなあ」。90年代後半になってモントキアラが開発され、ツインタワーが建設された。二度目の赴任は2012年。一度目の駐在を終え、本社に戻った小田さんが海外営業畑で世界各国を出張で飛び回っている間に、妻は東京でアジアの言語を教える語学学校を立ち上げ、生徒数700人規模にまで大きく成長させていた。そのようななか、小田さんには二度目の駐在辞令が下り、マレーシア法人の役員として赴任。そして、マレーシアで第二の人生を始めるべく早期退職。妻が日本の語学学校の経営を他の人に譲り、マレーシアでの起業を決めたため自身も参画することに。小田さんはセンターの運営、経営全般を取り仕切る。「ILOHAカルチャーセンター」の運営は7年目。開業当初、日本のスイーツの作り方を教えるクラスを告知すると申し込みが殺到。電話が鳴り止まず休む暇はなかった。日本語クラスにも生徒が殺到して、教室が足りなくなる事態になり、一つ上の階も借りて増床。料理、生け花、茶道、漫画、今ではマレー語や中国語など、在馬日本人やマレーシア人の需要にも応えた新しいクラスを続々と開講し、今や700人が通う一大カルチャーセンターに成長している。「我ながら面白い人生を選択したな、と。それにここは住み心地がよく、人がとても魅力的ですね。活気があって刺激をもらえます」。幼少の頃から、遊びの場、そして学びの場が太宰府天満宮だったという小田さん。その頃の原体験が、今のカルチャーセンター運営につながっているのかもしれない。


 

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