2021年5月-この人のセニョ〜ム 柳田 哲也 さん

些細な感謝と評価の積み重ねに喜びを感じる。
大小に関わらず、筋が通った仕事は全て楽しい!

柳田 哲也 さん

1973年千葉県市原市生まれ。O型。91年、高校卒業後、和食職人を志し、東京調理師専門学校へ進学。懐石料理店での下積みを経て、95年、「なだ万」帝国ホテル店へ引き抜かれる。日本料理専門調理師・調理技能士および、ふぐ調理師資格取得。96年、技能五輪全国大会日本料理部門優勝。労衝大臣賞受賞。99年来馬。04年、シャングリラホテル内「Zipangu by Nadaman」の調理長に就任。06年退職後は、多数レストランの立ち上げや食材のコンサルティングに従事。10年、現・IKEJIME FISH MALAYSIAを創立し、食に関する様々な事業やMCO中のネット販売事業などを支援する。

幼少期から手先が器用で「将来は歯科技工士に」と、漠然と考えていたが、苦手な英語が必須ということを知り断念した中学卒業時、柳田さんの親友は和食職人の道へと進んだ。厳しい修行に悩み、弱音を吐くも、店で作ってくれただし巻き卵に心を打たれた。自分もこの道へ進もう! 高校時代は様々なバイトを経験、なかでも人格形成に影響したのがごみ収集の仕事だ。激務な上に「臭い」と嫌悪され、激務だからこそ「ありがとう」と感謝される。両極端な周囲の反応に人間性を学んだという。

調理師学校に入学や否や、講師に小さな懐石料理店を紹介してもらう。学業と住み込みでの下積みを同時進行、そのまま就職。ある時、入院患者の仕出し用のだし巻き卵作りを任された。出前の度に掛けられる「だし巻きうまかった」との一言と、あの時の親友にやっと追いついたことを糧に仕事に励むも、バブル崩壊の煽りを受け閉店。住処も職も失う。前職に戻るという兄弟子たち、実は老舗料亭「なだ万」の腕利き料理人であること初めて知った。縁あって大手企業付帯の宴会施設で再出発。5名の調理人の下っ端、名店で活躍する一流料理人が臨時で助っ人に入る特殊な現場で休みなく働く鍛錬の日々であった。

22歳、「自己飛躍のため辞職しろ」と総料理長。仕事ぶりが買われ、なだ万帝国ホテル店へ引き抜かれたのだ。さらに技能五輪全国大会出場に推薦され優勝を果たすと、「世界に通用する和食」を目指した。99年来馬。02年、シャングリラホテル内「ジパング」のオープニングに抜擢され、04年からは調理長を務めながら、日本食材関連のイベントにも出向。「英語が苦手だったので食材名はそのままShishamoEdamameSabaって説明したんだ。マレーシアで日本名が流通している原因は私にあるかも」と、屈託のない笑みを見せる柳田さん。

07年、ジパングを退職。常連客に飲食業界の人が多く、シェフの立場から相談を受ける機会が増えたこともあり、コンサルタント業を本格始動させた。MIZUTATSURokkoなど、マレーシアの名だたるレストランの立ち上げに携わった。

11年、東日本大震災以降、日本からの海産物輸入が不安定になると、マレーシア大手養殖企業「GSTグループ」に掛け合い、生食可能なフエダイなどの養殖を実現、販売を開始した。

現在はシェラトンPJMIYABI」のシェフ・コンサルタントを担う傍ら、今までに培ってきた人脈とご縁をフル稼働、「西松の三崎まぐろ」はじめとする、様々な日本食材の供給と普及に貢献する「縁の下の力持ち」として勇往邁進されている。

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