2010年9月-私が愛したスパイ

 スパイが好きだ。しかも美人とくればレベルは一気に10倍に跳ね上がる。色仕掛けと、ターゲットに迫るサスペンス。美人スパイは必ず知性的な目のひかりと、国もカネも信じないアナーキズムを兼ね備えていなければならない。できれば、愛や家族を裏切るサディズムも…。そのトリックに引っかかりマゾヒズムを満たしたいと密かに願うおバカもいるだろう。でもそれは、小説と映画などフィクションの世界での話…。

 現実はフィクションをあっさり超える。米連邦調査局(FBI) がこの夏、ロシアのスパイとして摘発した11人の一人、アンナ・チャップマン(28)=写真=という「美貌の女スパイ」が話題をまいた。夕刊紙は容疑者が若い女性だとすべて「美人」の形容詞を付けたがる。ロシアの友人は「えっ、ボンドガール?あんなイモが」と、にべもない。美人かどうかの判断は、読者に委ねたい。

 手口はバカバカしく古典的だ。モールス信号のような無線。死亡した別人に成り済まして得た偽ID。「あぶり出し」インクと、庭の土中に埋めた大金-。時代錯誤な手法ばかりだが、カウンターインテリジェンスの専門家は「古くからある手口のほうが目を欺きやすい」とみているらしい。アンナたちは小型核弾頭の開発情報を集めていたとされるが、摘発側が公表する「ターゲット」の内容は当てにならない。いや、本当にスパイだったかどうかも疑わしい。

 モスクワでも、ロシアとの関係改善を望まない米政府内の勢力による〝陰謀〞という見方がささやかれている。オバマ大統領が、白人キリスト教保守派の反対を押し切り「国民皆保険」を導入したため、「オバマは社会主義者」というレッテルを貼る保守派が増えている。史上最悪のメキシコ湾原油流出事故で支持率は下降続き。そこで「社会主義ロシア」との協調を快く思わない議会や政権内部の勢力が、協調関係に水を差すためにでっち上げたというストーリー。「陰謀論」を思いめぐらすのは刺激的なゲームだが、明確な根拠があるわけではない。

 ただ米国の歴史を振り返ると、陰謀論も意外に説得力がある。米国初のカトリック大統領だったケネディも、キューバ危機やベトナム戦争の対処をめぐり、軍と政権内タカ派から激しく足を引っ張られた。その関係は「敵対関係」といってもよいほどだった。だからケネディ暗殺疑惑は、今もって結着がついていない。ここから言えることは、国家の外交政策を、一個人が「一枚岩の人格」から決定するような合理的判断と見なすと、思わぬ誤算が生じるということだ。これはマレーシアも同じことだ。

 捕虜交換で釈放されたアンナが、子供時代を過ごした南部ボルゴグラードでは、彼女は英雄扱いで、下院選に担ぎ出す動きもある。もし陰謀説が正しいとすれば、彼女は米保守派にとっても「私が愛したスパイ」だったことになる。フレミング第9作の題名は「私を愛したスパイ」だった。          (了)

オットット爺や

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