2016年11月-恩讐の“兄弟”

恩讐の“兄弟”

森の小道を登ると二階建ての建物が視界に入った。グレーの煉瓦造りの瀟洒な家は、中央の玄関を挟んで左右対称、山荘のようにもみえる。一階の窓から中を覗くと、書斎風の部屋やベッドルームがあるが家具はなし。生乾きのコンクリートの臭いがする。工事中なのだろう。
中国湖北省にある武漢大学の広大なキャンパス内にあるこの建物は、蒋介石・中華民国総統が宋美齢夫人とともに住んだ家だという。住んだのは1937年末から10ヵ月余り。日本軍が首都南京を陥落した後、重慶に遷都するまで武漢に臨時首都が置かれたのだ。建物は修復中で非公開だ。
国民党と共産党といえば宿敵のように見られがちだが、そうではない。当時は抗日戦争を戦うため協力関係にあった。そもそも両党はソ連共産党の指導でつくられた「双子」みたいな関係にある。父親はレーニン。双子だから組織論や党が国と軍を指導する統治論はウリ二つである。

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武漢大学のキャンパス内で修復中の蒋介石旧居

後に中国首相になる周恩来は、この武漢時代「国民政府軍事委員会政治部」の副部長として蒋介石の補佐役を務めた。周の宿舎は蒋の家を下った森の中にある。山荘風の建物は公開されている。蒋介石と約10歳年下の周恩来は「恩讐」という言葉にふさわしく、時に対立し時には協力する「兄弟」のようだ。
二人は浙江と江蘇というお隣同士の出身。青年期の経歴はよく似ている。蒋は1907年日本に留学し日本陸軍に入った。周も10年後に日本留学して明治大学に学ぶ。勉強のほうは芳しくなく日本語は片言しか話せない。蒋が24年、中国初の軍事アカデミーの校長に就任すると、周は後を追うように同校政治部副主任になった。
「対立」のほうはもっとドラマチック。周が26年上海で武装蜂起に参加して蒋率いる軍隊に捕らえられたが、処刑寸前に脱出した。10年後の36年、今度は西安で二人は劇的な再会をする。抗日戦争の決断を渋る蒋が拘束された「西安事件」である。抗日戦争を推進する説得役として西安に派遣された周は蔣を見るなり「校長、お久しぶりです」と挨拶したといわれる。
蔣は38年3月末、旧居から歩いて20分ほどにある大学本部の礼堂で「抗戦の目的は日本帝国主義の侵略に抵抗して国家民族の滅亡を回避すること」という有名な「抗戦建国」方針を発表した。周は演説に先立ち、蒋の家に足繁く通い、演説内容について打ち合わせを重ねたに違いない。
二人は、時には山道を仲良く散歩しながら、様々な話に花を咲かせたのではないか。二人が好きだった料理に「獅子頭」がある。大きいミートボールを甘辛い醤油で煮込んだ浙江の名菜。KLの中華で「獅子頭」を食べながら、二人に思いをはせるのも一興かも。 (了)

オットット爺や

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