2015年9月-マレーシア最新芸術事情

P.ラムリー

 マレーシア映画史上に燦然と輝く銀幕のスターP.ラムリー。1950、60年代にマレーシア映画の黄金期を築いたといわれる彼は、44年のその短い生涯の間に、66本の作品を撮り、その多くで、脚本、主演、監督、楽曲作曲のすべてを務めています。P.ラムリーのヒット作で歌われた歌は、当時を代表するヒットソングとして、今でも頻繁にラジオやテレビから聞こえてきます。

ペナン出身のP.ラムリーは、名門Penang Free Schoolを卒業したのち、ペナンのラジオ局の歌唱コンテストで優勝。その7年後には俳優としてのキャリアをスタート。当時マラヤのラスベガスとも呼ばれたシンガポールに移り、数々の作品を生み出しました。日本映画、特に黒澤作品に大きな感銘を受けていたというのは有名な話で、彼の作品『Enam Jahanam』は『七人の侍』をモチーフとしたものだといわれています。

 そんなマレーシアが誇る大スターのP.ラムリーですが、Tan Sriの称号はその死後に与えられたもの。亡くなる直前は実はまともな食事をとることができないほど貧しく、白いご飯と卵焼きだけを食べていたといいます。

 彼の苦しい生活は、シンガポールから帰国し、マレーシアに映画製作の拠点を移したことからスタートします。マレーシアが誇るべき存在の彼を、「新たなマレーのスター」を生み出そうとするマレーシアの映画界、エンターテイメント界は煙たがり、新作の製作費の確保も困難になり、やがて作品の質も低下していきます。

 彼の受けたそんな仕打ちとは相反して、一般の人々はP.ラムリーの作品を愛し続け、現在に至るまで、何度も何度も繰り返しテレビで放映されています。今度は業界がそれに便乗するかのように、最近になってP.ラムリーを大々的に称え、挙句の果てには先日国立芸術大学の位置づけであるASWARAまでもがその名前をP.ラムリー大学とする予定だといい出す始末。びっくりすると同時に、なんだか空しくなってしまいました。

※クアラルンプール市内SetapakにはP.ラムリーが最後に住んだ家が博物館として公開されています。
P. Ramlee Memorial( マレー語:Pustaka Peringatan P. Ramlee) 住所: 22, Jalan Dedap, Taman P Ramlee, 53000 KL

アティカ

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