2010年10月-慈愛の精神

 先日、日本人の友達と3人で昼食をとった。場所はとあるオフィス街。私たちはそれぞれ用事があったので、ササッと簡単な昼食を済ませるつもりで店先のテーブルに着席した。時刻は12時半。まだ空いていた。間もなく白飯の上に、骨がゴツゴツと飛び出したままの、ぶつ切りフライドチキンが5個、甘じょっぱいソースのかかったぶっかけ飯が運ばれてきた。彩りにきゅうりが添えられている。大嫌いなきゅうりを皿から取り除いていたその時、我々の前に男がヌッと現れた。

 上半身裸、頭は何年も洗っていないのだろう、みごとなモリモリ頭、ズボンの内股が破れていて、歩くとベロンベロンと太ももを露わにしている。彼は私たちのテーブル脇にスッと寄ると、ガバッと大きな手を広げ、隣に座っていた友人のチキンを残らず鷲掴みにしたかと思うと、即座に身を翻して逃げていった。あっという間の出来事に我々は目が点。手、熱くない? 痛くない?

 我に返ってお店のおっちゃんに今しがた起きたことを話すと、ご飯しか残っていない皿を下げ、新しく作り直し、食事が済むまで傍らで見守ってくれた。3人とも在馬10年近いがこんなことは初めてだ。チキンを盗まれた友人は、テーブルに無防備に置いていた携帯を手に取りながら「携帯じゃなくてよかった…」とつぶやいた。マレーシアの生活に慣れきっていたがもっと注意深くしなければ…、と反省しきりだ。

 マレーシアは優しい国だと思う。例えば、宝くじや新聞、果物や手作りのお菓子、妙な文房具に海賊版DVD、あらゆる人が自由に飲食店を出入りし、店内で食事中のお客さんに物を売る。店主も問題さえ起きなければ何も言わない。私の夫も、そういう人からペンやお菓子を時々買っている。「この人達は物を売って生活するセールスマンや。必要なものがあれば買ったらいいやん」と言う。なるほど。とはいえ、募金を募る青年がテーブルに寄ってきた時の夫は冷たい。「そんなことする暇があったら、自分で働いて寄付したらいいやろ」と説教モードに切り替わる。これも一理ある。以前、日本へ帰国した時、フィリピンの水害の子供を助けようと、8人の大学生が「募金をよろしく!」と叫んでいた。夫はそれを見て、「8人なぁ。日給8000円のバイトしたら6万4000円の寄付ができるのになぁ」とつぶやいていた。「こんな慈善活動をしています!」というアピールから、人の気持ちを動かすことも大切なことだろう。でも、8人は多すぎる。少なくとも半分の4人がバイトをすれば3万2000円は確実に寄付できるのだから。  

 では、私に何ができるだろう? 不用品は寄付したり、物乞いがいたら小銭をあげたり。しかし、パサーマラムにいつも来る物乞いがタクシーで出勤し、乗車料金を支払っている姿を見たこともある。複雑だ。

 得たいのしれない団体に頼るのではなく、その時々に私ができることをすればいいのだ。困っている人がいたら手を差し伸べる、その気持ちと勇気が大切であると思う。それにしても…。我々からチキンを奪った男のことを思い出す度に怒りがこみ上げてくる私には、まだまだ慈愛の精神が欠けているようだ。

利秀

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