国境という曲者(総括編)

-国境から何が見えるのか-

 今回はこれまで紹介した4つの事例をもとに「国境から一体何が見えるのか」を考察してみることにする。 

国家の誕生 

 西洋が取り入れた国境が画定すると、その後時間差はあるものの、ナショナリズムが発達し、そこに国民国家ができる。マレーシアの場合は、植民地下でできた国境線がそのままほとんど引き継がれた。『想像の共同体』で著者ベネディクト・アンダーソン氏が言うように、「国民はそれまでに会ったこともない人とも心が一緒になり、国境という括り( くくり) のなかの人たちは運命の一体性を感じる」ことになる。

 一方で国境を一歩出ると、そこには別の国家に属した人たちがおり、自己と他者を区別する。だが、東南アジアでは国境を越えたところでも、文化や言語を共有している人たちが数多く、庶民レベルでは国境をあまり深刻に受け止めていないのが現状だ。

文化圏の切断 

 しかし、別の国に同じ文化を共有している人たちがいることで問題も発生する。

 タイ南部はマレー半島北部とつながりの深いイスラーム圏で、パタニ地域がタイに組み込まれたことで、スルタン制度が廃止され、戦後タイの同化統合政策に猛反発する形で様々な悲惨な事件が相次いでいる。また、「副産物」としてタイ語を話すイスラーム教徒「サムサム」も誕生。母語としてタイ語を操るが、イスラーム教徒としてのマレー人の意識があり、アイデンティティーが重層化している(国境という曲者シリーズ4)。

 フィリピン南部も同様で、文化の一体性を無視して国境が敷かれ、イスラーム教徒という理由で差別待遇を受け、その反発としてミンダナオ島では凄惨な独立分離運動が今も続いている(同シリーズ3)。

 スマトラ島とマレー半島との間にあるマラッカ海峡の分断は、インドネシア独立時にスマトラ島側はマレー半島との統合を夢みたが、ジャカルタの強い政治力でインドネシアに引き込まれた(同シリーズ2)。

 シンガポールの場合、国内にマレー人はいるものの、中国人が多数であることから、マレーと中国文化が切断されたために1965年にマレーシアから追放されても、反対運動はほとんどなく、ジョホール海峡の国境はほぼすんなりと画定した(同シリーズ1)。

 これら国境地帯では国境が画定したものの、 現在でも両者の繋がりは切れておらず、庶民レベルの交流は今でも活発で、国境をまたいで活動している。 

国境を越えて 

 以上の例から、マレーシアの国境はシンガポールを除き、イスラーム文化圏を切断してできあがった国家としてみることができる。マレーシア国内では大きな紛争とはなっていないものの、タイ南部やフィリピン南部のミンダナオ島などイスラーム圏である地域では、その国で辺境化を招き、長期にわたって惨事が続いている。

 文化圏を切断してできあがったマレーシアはどのように隣国の紛争問題を解決しようとしたのだろうか。

 ラーマン初代首相は、独立直後から地域機構の設立を模索し、1959年のフィリピン訪問時に東南アジア友好経済条約(SEAFET)案を提示した。経済低迷が、今でいうテロ行為を助長させることになるため、東南アジア全体で経済及び文化協力を進め、これを通じて同時に国内経済をも発展させていきたい考えを盛り込んだ。地域機構はタイとフィリピンと密接に協議して、東南アジア諸国連合(ASEAN)の前身である、東南アジア国家連合(ASA。1961年創設)という形で結実したが、各国共通の問題の解決策を地域機構を通して導き出したいとの意向が汲まれた。つまり、国境はできたものの、国内を安定させ、紛争を防ぐためには国境を越えた地域協力が不可欠であったのだ。

 国境の画定で、中心・周縁関係ができ、周縁の辺境地域ではその声がなかなか中央に届かないことが多い。国民国家が誕生するはるか以前の東南アジアは「シリーズ3」でも指摘したとおり、領土ではなく、人と人との関係が王国をつくり上げていた。臣民はその王に愛想を尽かすと別の王に服従したり、また二重に服従したりする関係もあったため、『マングローブの沼地で』の著者鶴見良行氏が言うように、国民国家体制よりもはるかに民主的な制度であった。

 マレーシアも含め、現在の東南アジア諸国では、国境のなかった王国で何百年も民主的に生活してきた人たちが、植民地の支配とともに西洋製の国境に囲い込まれ、西洋式の民主国家をどのようにつくるかという議論をしている。マレーシアも含め東南アジア諸国は国家創設から100年も経っておらず、西洋式の民主主義は道半ば。しかし、現在の国家で果たして西洋式の民主主義が徹底される日は来るのであろうか。国境を通して考えてみると甚だ難しい課題である。国境が曲者である所以でもある。

 葉一洋

関連記事

コメントは利用できません。

アーカイブ

ページ上部へ戻る