知られざるペナン州

 観光客がよく訪れるペナン島。多く の人はペナン島だけがペナン州になって いると思っているが、ペナン州はペナン 大橋で結ばれた真向かいの細長い土地を も含めている。ここには多くの日系企業 があり、観光地ペナン島とは別の姿を見 せている。 今回は、ペナン州がなぜこんな変な 形になったのかを追い、あまり知られて いない歴史も紹介する。

ペナン島の「発見」

 西ペナン島はもともとケダのスルタ ンの支配地で、 18 世紀後半に英国が「発 見」するまでほぼ無人の島だったとみ られる。

 ペナン島は 1786年に英国出身の フランシス・ライトが英国の領有を宣 言したが、これについてはケダの政治 的事情を把握する必要がある。

 ケダは1770年にスルタンが高 齢のため、アブドゥラ王子に一部地域 の統治を委ねたがすぐさま問題が発生。 貴族らが反乱するなどの内紛に発展し、 スランゴールの介入を招いた。このた め、スルタンは英国に軍事援助を求め たが、英国の軍隊が派遣された頃には 反乱は地元住民の支持が得られずに失 敗した。軍隊に同行した、東インド会 社の貿易商人フランシス・ライトはこ れを機に、現在のアロースター西部の 海岸沿いにあるクアラ・ケダに商館開設の契約をスルタンと結び、ケダに第 一歩を踏み入れる。

 スルタンとなったアブドゥラはこ の頃、シャムとビルマの侵攻を防ぐた め、ライトを通じて英国の保護を求め た。この際、条件としてペナン島の割 譲を申し出て、東インド会社はこれを 受理。軍事援助に関してはロンドン本 社の決定を待つこととなったが、ライ トは1786年 6 月にケダに入り、ス ルタンに報告。軍事援助の決定を待っ ている間にライトは同年 8 月 11 日にペ ナン島の領有を宣言。島名を「プリンス・ オブ・ウェールズ島」とし、英国のジョー ジ三世国王にちなんでジョージタウン を建設した。つまり、ライトはスルタ ンとは島の領有に関する契約をせずに 勝手に宣言したのだった。

  スルタンが期待していた軍事援助 は反故にされ、スルタンは約束の不 履行を訴えて、ライトにペナン島か らの撤退を要求したが、ライトはこ れを拒否。ライトはスルタン側を軍 事攻撃し、ペナン島の割譲を正式に 割譲させる条約を1791 年に締結 させ、さらに1800 年にペナン島 対岸の土地を割譲させる条約も結ば せた。この土地はのちにウェルズレー 州と呼ばれ、スルタン側からペナン 島への直接攻撃を守るために割譲さ れたものだった。ここに現在のペナ ン州の範囲ができあがった。

幻の分離運動

 1827 年にペナン島が自由港と なって以降、100年以上に渡ってペ ナン島は自由港として栄えた。 しかし、1940年代後半になると 政治的な動きが出てくる。

 ペナン島の住民の多くは、貿易に携 わる商人で、華人が最も多く、協会な どを結成して互いの意思疎通を図って いた。

 1946年に英国によるマラヤ連合 構想が頓挫し、 48 年にはマレー人の意 向を汲み取った形でマラヤ連邦が結成 される。連邦には現在のマレー半島の 9 州のほか、海峡植民地(シンガポール、 マラッカ、ペナン)が組み込まれたが、 ペナン商人たちは連邦からの分離を模 索する。

 商人たちが分離を考え始めた理由は 様々あるが、連邦に組み込まれたことで、 ペナンがシンガポールと比べて貿易品目 が制限されたことに加え、連邦政府がペ ナンの利益にほとんど関心を寄せておら ず自由港の地位を喪失するのではという 危惧も生まれた。また、海峡植民地の住 民は英国臣民として扱われるため、連邦 に参加することでその身分を失いたくな いとの心理が働いた。さらに、マレー人 がペナンでの特権を要求し、マレー人が 占めるほかの州の間に埋もれてしまい、 ペナンの政治的な意見が中央に反映されないという不満が積もったことも理由と してあげられる。

 ペナン華人たちは1948年末に暫 定的な分離委員会が結成し、協議が行わ れた。一方で、ペナンでは1949年 1月に華人・マレー人親善委員会が設立 された。両民族の親善を深めることが目 的としていたが、華人主体の分離委員会 は自ずと親善委員会の趣旨に反する活動 となり、ペナンでは華人たちの思惑と裏 腹に民族問題に拡大。マレー人の間で華 人に対する不満が高まった。

 分離委員会は植民地政府に請願書を 送るなどして活動したが、 46 年にマラ ヤ連合の頓挫でマレー人の協力なしに は事態が進まないことを知った英国は この問題を扱わず、分離運動は下火と なった。

  しかし、 55 年頃から分離運動は再び 起こった。連邦の独立運動が活発化し たため、これを機にマレー人支配を恐 れた華人らは身分の保証や権利を守る ため分離運動を再開したが、英国は非 常事態宣言で共産ゲリラ鎮圧に注力し ており、交渉の余地を与えなかった。 57 年 1 月にはマレー人と中国人による 人種暴動がペナンで発生し、事態収拾 までに 5 日を要した。分離運動活動の 主要幹部はこの頃までには中央政府側 についたため、分離運動は収まり、マ ラヤ連邦下で 57 年 8 月にペナン州とな り、現在に至っている。

 葉一洋

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