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2010年8月-国境という曲者(その四)
- 2010/9/5
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-マレー半島の分断-
マレー半島北部はタイと国境を接している。タイ南部はイスラーム教徒が多く、文化的な繋がりは深いが、国境がこの繋がりを切断してしまい、悲劇も生まれている。今回はこの両国の国境がどのように画定されて現在に至っているのかを概観する。
マレー半島北部の王国
19世紀以前のマレー半島北部にはクダ、クランタン、トレンガヌのほか、現在のタイ側にはパタニやソンクラーなどの王国が存在した。
半島北部はすでに15世紀頃からイスラーム化し、パタニ王国は仏教とイスラーム教の接点地となっていた。しかし、交易の勢力圏を拡大しようと目論むシャムが、たびたびマレー半島を攻撃。労働者の確保と同半島に豊富な錫の確保が目的で、16世紀には現在のパハンにまで手を伸ばした。このときはマレー半島の各王国が女王の君臨したパタニ王国と連携して駆逐した。
シャムは南部の拠点ナコーンシータマラートから派兵し、17世紀にここの知事に任命された山田長政はパタニ王国と戦っている。18世紀に入るとパタニはほぼシャムの勢力下に入ってしまい、シャムはさらに南下し、勢力を強めていった。
翻弄される北部地域
19世紀はシャムだけでなく、英国の勢力も参入して、各王国はどう生残るかを模索する。
クダ王国はすでに17世紀以降、シャムに朝貢していたが、シャムは1821年にクダを占領。スルタンは英国下のペナン島に逃げ、そこから王位復権運動を展開した。シャムはその後、パハンにも軍勢を伸ばしたが、スランゴール勢が追い出した。シャムの勢力拡大に危機感を抱いた英国はバーネイ条約を1826年にシャムと締結。クランタン、トレンガヌ、クダはこの条約でシャムの属国となった。
1831年にはパタニでシャムへの反乱が起こり、トレンガヌとクランタンは兵を送る。強力なシャムの軍勢が鎮圧したものの、この時期にパタニから南部のクダなどに難民として大量の人口が移動した。
クダのスルタンは1842年に英国の仲介で復権を認められたが、一部地域をシャム寄りのスルタンが統治する王国が創設され、ここがペルリスと呼ばれることになった。
その後、20世紀に入るまでマレー半島北部はシャムの勢力下に置かれ、クダは実に合計90年にわたってシャムに支配された。ちなみに、ラーマン初代首相はクダ王家の血を引き、幼少の頃にバンコクの学校に兄弟とともに留学したため、タイ語に堪能だったといわれる。
外部による容易な領土交換
20世紀に入った1909年、シャムはマレー半島北部の4王国(ペルリス、クダ、クランタン、トレンガヌ)を英国に割譲することに合意。スルタンらの協力が得られず、またクダの財政が逼迫し、これらを手放した。現在の国境はこの際にほぼ画定したもので、パタニ側のシャム支配の確定をも意味した。1902年にはすでにパタニのスルタンは廃止され、シャムの統治が強化される一方、4王国はその後、英国の下で植民地化が進められた。
しかし、第二次世界大戦に入り、この地域はまた大国に翻弄される。日本軍は真珠湾攻撃の数時間前の1941年12月8日午前1時頃、クランタンのコタバルやシャム側のパタニなどに上陸して占領。英国は撤退し、日本軍はシャムの戦争協力の見返りにこれら4王国をシャムに割譲した。
1945年に大戦が終わり、マレー半島に復帰した英国は、4王国を再び植民地化。4王国はその後マラヤ連邦に参加して1957年に独立し、現在の国境が画定した。
一方、パタニ地域で英国は大戦中に同地域をマラヤに組み入れることを模索。地元住民は、戦争協力を条件に英国から独立の約束を取り付けた。しかし、戦後、英国はタイ(シャムから1949 年に正式に変更)との関係から大戦中に約束した独立を反故。同地域は国際法の下でタイ領土に正式に組み込まれ、以後仏教徒タイ人との統合同化政策が行われた。これに加えて不公平な経済政策などにも反発し、同地域では戦後クランタンからの支持を受けるなどして独立分離運動を展開。この運動は現在まで続き、2001年以降イスラーム過激派による悲惨な事件が続いている。
上記で見たように、マレー半島北部はパタニ地域とは民族、宗教、言語の面で共通性を保っており、このため互いに心理的に近い関係にある。これら地域の頻繁な領土割譲はまったく地元住民の意思とは関係のないところで行われ、植民地の勝手な意向でイスラーム教を基盤とするこの地域を二つに割ることになった。__