2011年3月-幻のイスマイル第3代首相

 クアラルンプール市内にTaman Tun Dr. Ismail という住宅地域があり、通称 TTDIと呼ばれている。この一角に はかつて副首相まで務めたTUN Dr.イ スマイルの私邸があったことから、この 名称が付けられている。しかし、彼の功 績はマレーシアの人の間でもあまり知ら れていない。今回は、彼がマレーシアに どう貢献したのかをみることにする。

政治信条の形成と政界入り

 ジョホールのマレー人貴族の家庭に 生まれたイスマイルは、華人の祖父をも つ。小学校時代にはマレー人たちとよく 遊んでいたが、中学校は英語学校に入 り、主に華人たちと仲良くなった。また、 9人の兄弟姉妹に恵まれたうえ、父親は 10 人ほどの華人の子供を養っていたよう で、こういった環境がイスマイルの民族 差別のない政治信条の形成に繋がったと本人は後日語っている。

 医師を目指したイスマイルは、シンガポールのエドワード7世大学薬学部に入り、その後豪州のメルボルン大学医学部を卒業。帰国後、ジョホールで開業医を営む傍ら、政治に目覚めた。1936 年に母が他界した後、父はジョホール・ スルタンの勧めで、スルタン側近のダ トー・オンの妹と再婚。この縁でイスマ イルは、48 年のマラヤ連邦結成後にジョ ホール州議会議員に指名された。

 50 年にイスマイルは結婚、ペナンに新 婚旅行に行く途中でトゥンク・アブドゥ ル・ラーマンと出会う。政治信条の違った義理の叔父、ダトー・オンがマレー人統一国民戦線(UMNO)を離脱後、総裁となったラーマンのもとでメンバーとなり、ラーマンの右腕の一人として英国との独立交渉などにも立ち会う。

初代米国大使として

 1957年7月、イスマイルは初代国連兼米国大使に内定され、米国ワシン トンに向かった。すでに連邦議員であっ たが、一年だけの任期を条件に大使職を受け入れた。彼の仕事はまず、大使館の場所を決めることだった。一ヵ月あまりで場所を決定し、ビル3軒を購入。同時に国連のあるニューヨークの事務所も決め、8月31 日独立日の直前に一度クアラ ルンプールに戻る。正式に大使任命とな り、9月5日に米国に赴任。翌週には初めて国連演説を行う。彼は一日 18 〜20 時間働き、週4回はワシントンとニュー ヨークを行き来する生活で、日記でも「生涯でこれほど懸命に働いたことはない」と記している。

 プロの外交官もいないなか、各国大使との懇談や米国などへの融資引き合いなどのほか、外交官教育を部下に施していたが、一等書記官であり、当時のマラ ヤ国王の次男トゥンク・ジャファール(のちに第10 代マレーシア国王)には相当手を焼いたようで、首相に交替させるよう 懇願する記録も残されている。

 この時代には中央銀行の創設を首相に進言し、翌年それが実現。また、この頃には東南アジアの中立化構想案を練り、 1968年に正式に発表した。1959 年1月には大使職が解かれ、帰国後は外務大臣として中央に復帰した。

「引退」から副首相に

 イスマイルは外務大臣を経て、国内治安大臣、内務大臣を歴任。しかし、同時に年々健康が脅かされ、医師らの勧め で 1967年に大臣職を辞して中央政 界から「引退」した。

 しかし、1969年の人種暴動、5月13 日事件でイスマイルの運命は変わる。事件翌日に当時のラザク副首相がイスマイルに内閣に戻るよう説得。憲法停止、議会凍結の事態を受け、イスマイルも拒否せずに内務大臣に復帰。 70 年に ラーマン首相が辞任すると、イスマイル は副首相に任命された。

 有名なブミプトラ優遇政策」を取り入れたラザク首相と、穏健で民族差別のないスタンスを取り、華人からも信頼の厚いイスマイルとの間では政策をめぐり対立することもしばしば。ラザク首相は同事件後に独裁体制を模索したようだ が、イスマイルの説得に伏したという。 前首相を批判してUMNOを除名されたマハティールのUMNO復帰にイスマイ ルは憂慮したが、在任中は重しの役割を していた。

 「ラザク首相はすでに白血病におかさ れている」。イスマイルは副首相就任直後にこの事実を知らされていたが、独立間もない国家を支える使命を強く認識していたイスマイルは、自身の病をも省み ずに任務を遂行。首に腫瘍が見つかり、 73 年に入ると心臓発作を数回も起こした。周囲の説得に何とか応じ、外遊中の 首相が帰国した後にイスマイルは辞意を 伝えることを決めた。

  しかし、同年8月2日に悲劇が襲う。 午後の視察を終えて自宅に戻ると再び強い心臓発作に襲われた。専門医らの必死の治療にもかかわらず、午後10 時に死去。 外遊中のラザク首相はすぐに帰国し、「今となってはほかに誰を信用すればいいん だ」と未亡人に語り、無念の心を打ち明けた。

 彼の民族平等の政治信条はシンガポールのリー・クアンユーからも賞賛され、第3代首相として期待する人も多かった。大学卒業後から死去までの約25 年間にわたり、一貫して国家建設に力を注いだものの「イスマイル首相」とはならなかった。 しかし、彼の国家への功績は歴代首相に 匹敵するものがあり、敬意を表して英雄墓地に埋葬された最初の人となった。

 葉一洋

関連記事

コメントは利用できません。

アーカイブ

ページ上部へ戻る