2011年4月-マレー人の反英運動

 マレーシアは19世紀から英国の植民地に入ったことは有名だ。しかし、歴史書をみると、植民地プロセスのみが述べられていることが多く、それとは裏腹に反英運動が展開された歴史についてはあまり語られていない。今回は、19世紀から独立までの反英闘争について光を当てる。

19世紀の反英運動

 英国がマレー半島に手を付け始めたのは1792年のペナン島からだ。クダのスルタンは、承諾していない勝手な、英国による同島の領有宣言に腹を立て、奪回を試みるが失敗。これも反英闘争とみることができるが、本格的な反英運動は1830年代以降となる。

 マレー半島西海岸のネグリ・スンビラン、セランゴールやパハン、ペラでは、19世紀に入ってスルタン王家の内紛などが噴出。さらに発見されたスズ鉱山の利権が絡み、その支配権を巡っても内紛が生じ、それに中国人の秘密結社や英国も絡んだため、状況をより複雑にさせた時代であった。結果的にはこういった状況が英国の植民地支配を招いたことは言うまでもない。

 ネグリ・スンビランのスンガイ・ウジョンでは、スズ鉱山での勢力争いが1820年代から起こり、ダトー・クラナとダトー・バンダルが争った。後者は河川での通行税を違法に徴収したため、前者に味方した英国が軍を送ったが不発に終わった。

 74年に英国は前者を領主とした承認したが、後者は反発し、反英闘争として武力蜂起したが失敗に終わった。

 セランゴールではクラン地区でのスズの採掘権利を巡って、スルタンの娘婿と同地区の領主が対立。シンガポールの英国商人らから資金提供を受けた娘婿に対抗した領主ラジャ・マフディは反英も掲げてクラン戦争が67年から7年にわたって展開された。英国の支援を受けた娘婿は、最終的にマフディを打ち破って戦争が終わった。

 パハンでは、1888年に英国の理事官が置かれた。スルタン・アフマドは英国に対してあまり好意的ではなかったものの、ジョホールのスルタンの説得を受けて理事官の受け入れを承諾。財政難のパハンで理事官は徴税を強化して打開策を見出そうとしたが、地元の慣習をも無視して性急に進めたため、マレー人が反発。90年にはダトー・バハーマンは、自身の支配地域に英国が勝手に警察署をつくったことに怒り、ほかの指導者も加わって全土で武装蜂起した。トレンガヌのイスラーム指導者からも支援を受けたものの、英国軍の力には勝てず、彼はケランタンのジャングルに敗走。94年にはケランタンの砦で抵抗したが英国はこれを制圧し、パハンでの抵抗勢力を壊滅させた。

 ペラは、74年に締結されたパンコール条約後にマレー半島で初めて理事官が置かれた。ペラでも王家の跡継ぎ問題が後を絶たず、さらにスズの利権を巡って中国人らも巻き込んでペラ全土で内戦に発展したのが同条約の締結したきっかけだった。しかし、着任した理事官ジェームズ・バーチは、強引に徴税を開始するなどし、スルタン・アブドラをはじめとした指導者から反発を招いた。スルタンは側近らと結託してバーチを殺害して英国を追放することを決断。そして、75年11月にスルタン側近のダトー・マハラジャレラがバーチとその通訳を暗殺した。これを受け、英国軍が派遣され、スルタンらを攻撃したが猛反撃に遭った。しかし、その後関係者らは捕まり、スルタンはセイシェル島に流刑されたほか、死刑になる者もいた。ペラでの反英闘争はほかの地域と比べ最も過激な手段であった。

戦後から独立にかけて

 1945年に第二次世界大戦が終わり、マレー半島には英国が復帰。英国は1945年10月、マレー半島の9つの州とペナン、マラッカを英国人知事の下に統括させるマラヤ連合案を英国議会に提出し、1946年4月から導入した。マラヤ連合は、スルタンの権限を縮小し、移民として来た中国人やインド人に市民権を平等に与えることを盛り込んだ。マレー人らは自身の立場がなくなるとして 大変な危機感を覚え、これに猛反発した。

 マレー半島の各州のなかで歴史的にも優位に立つジョホールでは、貴族のダトー・オンがマラヤ連合に反対する「半島マレー運動」を結成。46年2月には約2万人にのぼる反対集会を開き、マレー人の団結と民族団体の組織を訴えた。そして、翌月にクアラルンプールでも「マレー人会議」を開催。ここでマレー人統一国民戦線(UMNO)が結成され、5月に正式に発足することになった。現在の与党第一党でもあるUMNOは、当時まだ確立していなかったマレー人という意識を民衆の間で覚醒させ、大衆運動として一つに団結させ、一大勢力となった。

 英国はその後、マレー人の協力がまったく得られずにマラヤ連合を断念。マレー人に大幅に譲歩する形で1948年にマラヤ連邦という形態に変えた。しかし一方で、一部中国人らは反発。この結果、マラヤ共産党の武力蜂起という事態を招くこととなった。このようにマレー半島では歴史の節目で反英闘争が出現したのである。

葉一洋

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