2012年10月-航空機の到来

20世紀初めに米国で航空機の製造に成功して以降、軍事及び商業化の両面で開発が進み、航空機の登場は英国植民地支配とも深く結びついた。今回はマレーシアでの戦前までの航空機登場の歴史を追う。

戦前のルート

 1903年に米国のライト兄弟が有人飛行に成功後、欧米を中心に航空機の開発が盛んとなった。 

 航空機は植民地宗主国にとって植民地との間の連絡手段となる道具となっていった。英国は1918年4月に英国王立空軍(RAF)を設立し、長距離飛行の開発に力を注ぐ。1924年に英国は複数の航空会社を合併し、インペリアル航空(IA)を設立。当時の英国は主要な植民地としてインド、南アフリカ、豪州を支配し、これを空路でつなぐ構想を立てるが簡単には進まなかったようだ。

 一方で、インドネシアの宗主国オランダは1919年に王立オランダ航空(KLM)を創設。現在、世界最古の航空会社の一つでもあるKLMだが、24年10月にはアムステルダム-バタビア(現在のジャカルタ)便を就航させる。当時は燃料などの問題などから中東とインドを通ってラングーン(現在のヤンゴン)、バンコク、シンガポール、メダン、パレンバンなど17ヵ所に及ぶ経由地を通ってバタビアに到着。所要日数は約2週間を要した。この路線が東南アジアに入った初めての商業航空機となったが、マレー半島はまだ空港がなかったため経由地に入っていなかった。

 長距離飛行に出遅れたIAは1927年になってロンドン-バスラ(イラク)便を開通。33年にシンガポール便を就航させ、豪州への就航は翌年となる。経由地は15ヵ所以上にも上ったが、マレー半島での経由地はケダ州アロー・スター空港のみだった。20年代にシンガポールや他の都市で水上飛行機はすでに登場していたが、空港がないため、大型航空機のマレー半島への乗り入れは遅れていた。

空港と戦後

 マレー半島での空港の建設はシンガポールを除き、最も早かったのは意外にも、20年代後半に建設された英国空軍が利用したペラ州のタイピン空港だったようだ。この空港には終戦直前の1945年8月12日、のちのインドネシアのスカルノ大統領とハッタ副大統領らが、日本軍の山下奉文陸軍大将の招きで、ベトナムで開催されるインドネシア独立に関する会談のために経由し、帰国時には同空港で地元のマレー人民族主義者らと会談している。

 34年末までにマレー半島には20ヵ所以上の空港が建設された。大規模な空港としてはアロースター、ペナン、タイピン、シンガポールで、クアラルンプール(KL)やクラン、セレンバンなどに小規模空港があった。KLはマレー連合州首都でIAの経由地として期待されたが、空港周辺の天候や滑走路の問題が深刻であったために利用されなかった。KL空港は、37年に設立された豪州系の航空会社がペナンなどの往復便として利用されたものの、KL空港の国際空港化は戦後になる。

 日本軍に占領された戦中は英国やオランダの航空機の運航は停止され、戦後に再開。マラヤ航空や英国海外航空などが英国の元植民地各地に路線を開通していった。

 ちなみに、マレーシア航空はマラヤ航空から63年に名称を変更。65年にシンガポールが独立し、両国の共同経営でマレーシア・シンガポール航空となり、72年に再びマレーシア航空の名に戻った。

*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、誌面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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