2012年4月-ギャンブルのはじまり

ギャンブルによる問題で、自殺や家族の崩壊などが絶えないのは、万国共通だ。マレーシアでも例外ではないが、さて、マレー半島での賭博はいつごろから始まったのだろうか。

ペナン島の開港で

 1786年に英国出身のフランシス・ライトがペナン島の領有宣言を行い、それ以降、同島に続々と華人が到来した。それと同時に華人らは中国本土の賭博も持ち込んだ。札や富くじの賭博が主に行われ、多くの華人がのめり込んでいく。ほかに娯楽がないことや職の不安定性が原因でストレス発散のために行われ、また華人労働者に若い男性が多かったことから手っ取り早く金を稼ぎたい心理も働いたのだった。

 もともと民家などでやっていたと見られるが、92年にはペナンで最初の公共賭博場が開設された。これは歳入の増加を目的としたもので、開設初年度は歳入全体の約60%が賭博からの収入となった。額は年々増加し、19世紀に入るとアヘンと並んで、大きな収入源となっていく。1819年に英国のラッフルズがシンガポール島に上陸を果たすと、同島も徐々に華人が増え、賭博場が開かれていく。ラッフルズは以前に赴任したジャワ島での経験から賭博行為に強く反対していたが、英国側の意見が割れて、賭博場への措置は二転三転。最終的に29年にシンガポール、ペナン、マラッカの海峡植民地全体で賭博が違法とされた。しかし、違法としたために賭博行為は逆に地下に潜伏してしまい、取り締まりを難しくさせていく。

植民地政府の取り締まり

 賭博場は海峡植民地のみでなく、マレー半島の華人が住むほかの町やスズ鉱山地区にも広がっていく。

 賭博は莫大な利益が出ることからマフィア組織である秘密結社も賭博場を経営し、それが秘密結社同士の抗争にも発展。さらに、賭博が社会に蔓延したことから借金を抱えた華人らによる窃盗や強盗、殺人など毎日のように起こり治安は悪化。従業員の横領で商取引が滞ったほか、夫が妻や子どもを借金の肩に売ってしまったり、女性が売春婦と化すケースも見られ、大きな社会問題となった。

 政府が賭博を取り締まるにも警察は無力に近かった。元来、各海峡植民地には巡査を含めた10人ほどしかいなかったため治安維持には限界があった。1840年代にはシンガポールの治安は著しく悪化し、地元住民らも治安強化と警察の増員を訴えるようになったが、財政不足を理由に海峡植民地を管轄するインドのベンガル総督府が拒否。しかし、生活もままならないほど治安がさらに悪くなり、総督府もようやく重い腰を上げ、警官を増員。

 57年になってやっと常駐の警察長官を派遣した。治安は60年代以降によくはなったものの、それでも賭博を続ける人も多く、ペナンでは60〜62年の間に約1800人が逮捕された。当時の新聞は、64年の時点でペナン島の海岸近くに43の不法賭博場があると報じている。

 賭博場では主に華人らが行っていたが、そこにはマレー人やインド人の姿はなかった。居住空間や言語の相違のためだったが、マレー人は村々で闘鶏をすでに賭博の対象にしていたが、海峡植民地外での賭博は違法ではなかった。

 賭博は禁じられていたものの、20世紀に入っても、賭博問題は後を絶たない。現在は1953年公共賭博場法で認定した一部例外を除き賭博を禁じているが、賭博行為による悲劇は今も昔もさほど変わらない。

葉一洋

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