2012年5月-タワウと久原財閥

サバ州で三番目に大きい町タワウ市。ここにJalan Kuharaという同市で最長の通りがある。「Kuhara」とは漢字で「久原」と書き、戦前に日立製作所を創設し、それを足がかりにして財閥を形成した久原房之助にちなんでいる。なぜタワウに彼の苗字が通りの名として残っているのだろうか。

ボルネオへの進出

 久原房之助は明治2年生まれの山口出身の実業家。鉱業を中心に事業を展開し、日立のほか、現在の日産自動車やJXホールディングス、DOWAホールディングスの基盤を作った人でもある。政治家としても戦前は有名で、逓信大臣や与党・立憲政友会総裁をも務めた。戦後、A級戦犯となって公職追放を受けたものの、不起訴。日中日ソの国交回復に尽力し、戦後初めて毛沢東と会った日本人としても知られている。

 久原は鉱業のほかにもさまざまな事業を手掛けた。造船や生命保険、肥料といった分野でも展開し、1914年から石油事業にも参入。北樺太や中国、朝鮮、インドシナ半島、フィリピンなどアジアを中心に資源調査を開始した。久原鉱業株式会社は1916年に英領北ボルネオで石油と鉱物の探鉱権を獲得するのに加え、ゴム栽培用の土地の租借とそれに隣接する原始林の払い下げを受けた。その場所が現在のタワウ市にあるタワウ川からメロタイ川南部の土地で、その面積は当初800ヘクタールほどだったが、1928年には約8560ヘクタールに達し、ここで「久原農園」を大規模に経営。ゴムのほか、椰子、マニラ麻、コーヒー、インディゴなどを栽培していく。

農園の実情

 久原の石油事業はボルネオで十数抗の試掘を開始したものの、数年後には「一滴の石油も出ずに失敗に帰した」。しかし、ゴムの需要が高まったことなどから、農園の経営は好調だった。1928年の記録では生産量は年間約317トンにもおよんだ。ボルネオには大小30の日系農園があったが、久原農園は三菱財閥系の窪田農園と並ぶ最大の農園であった。

 農園の従業員は、最高時には日本人が200人も常駐し、そのほかの労働者は3000人に達した。現地での労働力の調達が非常に難しかったことから、台湾や現在の福建省出身の中国人のほか、ジャワ人を多く雇っていた。

 当時の記録によると、農園側は労働者に住居や農具を一切貸与し、病人への治療費は無料にしていたという。衛生には特に気を使っていたようで、農園入口には「関所」を設けて、入園する際には身体検査を義務づけていた。農園はまた、漁業関連の道具なども地元住民に貸し、魚介類を漁民から買い上げて、それを農園労働者に安価で提供していた。

 しかし、賭博やアヘンの中毒になる者も後を絶たず、本国へ送還される労働者も多くなるなどの理由で、1930年代に入ると労働者は1000人強にまで落ち込む。農園事業全体にも陰りが見え、第二次世界大戦後、久原農園は英国の企業の手に渡った。農園から港へゴムなどを運ぶために敷かれたタワウ市を走る長い一本道は、いつから名づけられたかは分からないが、おそらく戦前にはすでに「JalanKuhara」と呼ばれたものとみえる。

 久原は農業関連の事業をここで初めて開始し、生産されたゴムは日産のタイヤの原料となっていった。日本の大手自動車会社の製造材料が実はタワウにあったのだ。タワウの町の発展にも欠かせない久原農園は、こうして通りの名前として現在も残っている。

*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、誌面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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