2013年10月-新聞のその後

前回、マレーシアでの新聞の誕生について紐解いた。多民族社会はすでに19世紀までには成立していたマレー半島では、新聞も各言語毎に発刊されていた。今回は20世紀から現代までの新聞の特徴を含めて追跡する。

20世紀初頭から

20世紀に入るとマレー半島のなかでも特に海峡植民地(シンガポールやペナン、マラッカ)やイポーなどで新聞が相次いで発刊された。これはインドや中国と結ぶ港町や鉱山近くに欧米人や中国人らが多く住んでいたためだった。

この時代の英語の新聞は、6紙が発刊された。読者層に貿易業者などが多かったためか、マラヤ経済の記事と欧米で発生したニュースが紙面のほとんどを飾った。

マレー語の新聞は短期間も含めて10紙以上が発行。10年以上続いたのはわずかに2紙のみで、英語紙の内容をマレー語に翻訳したものもあった。その代表的なものは1914年から17年続いた『Lembaga Melayu』などだった。

この時代は、マレーナショナリズムが勃興した時期で、 30 年代後半になるとマレーの民族主義者として名を馳せる人たちが編集する新聞が次々と発刊。現在のシンガポール紙幣に描かれているユソフ・イシャク(シンガポール初代大統領)は現在も刊行されている『Utusan Melayu』を、マレー統一国民組織(UMNO)創設者のダトー・オンは『Warta Malaya』を編集。これらの新聞がマレー人の意識覚醒を助勢した。

中国語の新聞は20年代から実業家による新聞の発刊が続く。彼らは既存の新聞の高い広告料に不満だったため、自身で発刊して紙面に自社広告を入れた。ゴムなどで実業家となった陳嘉庚は現在華人の主要紙『南洋商報』(23年発刊)を発行。また、タイガーバームなど医薬品を大規模に販売するため『星洲日報』(29年発刊)が胡文虎により発行された。各紙は中国本土のニュースを主に報じていた。

タミール語紙も13紙ほどこの時代には出回っていた。インドのニュースを報じる一方、ゴム農園などの労働者の社会問題に焦点を当てる新聞が多く、また女性専門紙として『Sinthamani』といった新聞もあったのは興味深い。

日本軍の侵略でそれまでのすべての新聞は発行停止。日本軍はプロパガンダのため、英語紙『ペナン新聞』や『マライ新報』など数紙を発刊。マレー語紙も『Semangat Asia』『Berita Malai』などを発行する一方、中国語では『昭南新聞』などが印刷された。インド人向けにはチャンドラ・ボーズのインド独立連盟が中心となってタミール語などで発行。インド独立を訴える記事が目立った。

戦前の有力紙の復刊

戦後は戦前に発行されていた新聞が次々と再発刊された。戦前の有力紙数紙は50年代初めに廃刊となるが、その他の有力紙を出していた新聞社は、独立に備えて56年以降にシンガポールやペナンから首都クアラルンプールに移転し、マレー半島全体に市場を本格的に拡大していった。

現在のマレーシアの主要紙の多くは、どの言語の新聞も、戦前から発刊されたため長年親しまれ、各言語の新聞では多様な主張がなされた。しかし、69年の人種暴動事件を契機に政府・与党は各社を次々と傘下にし、言語に隔たりなく、政府の意向に沿った記事や主張が書かれ、現在に至っている。*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

関連記事

コメントは利用できません。

アーカイブ

ページ上部へ戻る