2013年11月-女性の活躍

日本では古来から政治や文化面などで多くの女性が活躍してきた。一方で、現在のマレーシアでは多くの女性が会社などで働いているが、これは戦後から本格的に進出したといっていい。今回は戦前までの女性の活躍を辿ってみる。

古来から19世紀にかけて

植民地以前のマレー半島ではタイ南部のマレー人のパタニ王国で17世紀前後にラトゥ・ヒジャウという女王が20年ほど統治したり、クランタンでも女王がいたことが確認されているほかは、あまり女性が政治的に活躍した記録がない。

マレー人社会は男性中心のため、女性は主に家事や農業や漁業の手伝いをしていたが、市場で農作物などを販売したり、衣服や工芸品を売る女性行商人の姿もみれらた。一方、中国人やインド人の女性に関しては少数ながらいたものの、19世紀まで詳細な記録は皆無に等しく、小売店などで働いていたとみられる。

植民地となって

19 世紀に英国が本格的に植民地経営を進め、スズ採掘とゴム農 園の労働者が中国やインドから来た。両国からの労働者は圧倒的に男性で、1881年の記録では、中国人の到着総数8万803人のうち女性はわずかに3121人。インド人の場合、1869年の移民総数約1万人に対して女性はたった200人弱だった。その後徐々に女性の人数は増えていくものの、それでも1891年のペラ州を例にとると、中国人男性17人に対し女性1人しかいなかった。このため、売春宿が活況を呈し、中国人女性だけでは足りなかったことからシンガポールでは日本人娼婦も現れた。また、一部の中国人男性は嫁不足のため、マレー人女性と結婚し、ババ・ニョニャ文化が生まれることにもなった。

20世紀に入り、女性移民の数は上昇。1920年代の好景気のときに中国人女性やこどもが来たことなどが要因となり、男女の人口比率は縮まった。インド人女性は貧困からの脱出や不幸な生活からの逃避のため移民として来るケースも多かったが、誘拐されて連れてこられた人もいた。

女性たちの雇用はスズ鉱山やゴム農園にも広がったが、これらは教育の不十分さも加わって下層階級向けの仕事であった。このため、中流階級以上の女性にはほとんど仕事がない社会でもあった。

しかし、そのなかでもマレーシアで初の女性政治家として1920年代に活躍した人がいる。陳璧君(チン・ヘキクン)だ。ペナンの富豪商人のうちに生まれた彼女は1907年にペナンを訪れた汪兆銘(オウ・チョウメイ。のちの南京国民政府の行政院長)と知り合い、孫文の革命運動に参加。彼女は数年ペナンで政治活動を展開し、12年には汪兆銘と結婚して、以後中国などで積極的に政治活動を行った。ほかの女性政治活動家としては30年に設立されたマラヤ共産党にもマレー人や中国人の女性幹部が少なからず活動しており、男性社会のなかでも積極的に政治にかかわっていった。

インド人の場合、政治活動をする女性はほぼ皆無。1906年にタイピンで女性らが社会支援団体インド人協会を設立し、日常生活の問題やお祭りの準備などを支援する活動家がいただけであった。

マレー人女性の場合、シンガポールを含むマレー半島で設立されたいくつかの政治団体で婦人部があった記録はあるが、実態は不明。29年にジョホールで女性教員協会(PGGPJ)を設立したイブ・ザインといった戦後に政治家に転身した人物もこの頃に積極的に社会運動を行った。

*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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