2013年4月-ペリーとハリス

黒船で来航し日本を開国したことで知られるペリー。その後に駐日米大使として6年弱日本に滞在したハリス。この二人はマラッカ海峡を通過して日本を訪れた。今回は彼らが残したマレー半島の記録を探ってみる。

ペリー

マシュー・ペリーは1853年に黒船で浦賀に来航し、翌年日米和親条約を結び、日本を開国させた。アジア諸国との条約を締結することを目的とした東インド艦隊の司令長官として1852年に就任したペリーは、同年11月にフィルモア米大統領の親書を持ってバージニア州ノーフォークを出発。その後、カナリア諸島や南アフリカ、モーリシャス島、セイロン島、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して浦賀に入った。

そのペリーは航海記で、当時のマラッカ海峡やシンガポールについて記録している。

マラッカ海峡から南シナ海に抜ける場合、当時は水先案内人を現地で雇うことになっていたようだが、ペリーは水先案内人と連絡を取る時間がなく、ペナン港に寄港しなかった。このため、ペナンに関する記載はないが、通過したマラッカ海峡については「潮の満ち引きの差が3.6〜4.2メートルあることは記録に値する」とし、世界の同じ緯度の海岸でこれほどの差があるところはないだろうと記している。

その後、英国船の案内でシンガポールに入港。シンガポールについては活気ある港であることを記し、町の状況や野獣が多いことなどを挿絵とともに説明している。ペリーは4日ほど滞在した後に香港に向かった。

ハリス

タウンゼント・ハリスは1849年頃からアジア貿易に従事し、そのためアジア各地を転々。54年にはペリーが締結した日米和親条約に基づいて決められた駐日大使を志願。当時のピアース大統領に認められ、大使として日本に赴く。その赴任途中にペナンに滞在した。

56年1月19日にペナンに到着したハリスは、約3ヵ月滞在。ペナン訪問はこの時点ですでに7回目で、島の事情に精通していた。ペナン島には当時ホテルがなかったことから旧友宅に宿泊。記録にはあまりローカルの描写はないのだが、同年2月5日には春節について細かく記述している。華人はみな綺麗に服をまとい、家や商店は赤で装飾。通常禁じられている賭博はこの時の3日間のみ許可され、華人は酒を飲み賭博にふけっていたという。

ペナンの中でもハリスは、ジョージタウン西部にあり、現在のペナンヒル近くにある「ベルビューヒル」を気に入っていたようだ。島が一望できるこの丘には西洋式のエレガントな邸宅が立ち並び、多くの西洋人が住んでいた。付近にはナツメグやクローブが栽培されていた。朝は花の香りが漂い、多くの果物が実り、丘からの眺めは最高で天国のようだと記す。しかし、ハリスが訪れた日の夜はかつてないほどの暴風雨が6時間続き、驚いたと書いている。

ペナンでは象や虎などは見たことはないとする一方で、蛇やサソリ、猿などにはよく出くわしたが、それもあっさりと描写している。

ペナン滞在後、ハリスはシンガポールに4日間滞在し、バンコクへ。ここでシャムと2ヵ月の交渉を経て通商条約を締結。そして、マカオと台湾を経由して56年8月21日に静岡県下田に到着。その後に日米修好通商条約を結ぶことに成功した。

*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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