2013年5月-マレー半島とインドネシア

マレー半島はスマトラ島などインドネシアと古来から関係が深い。このため、第二次世界大戦以前からマレー半島はインドネシアと統一すべきと地元の政治指導者らは考えていた。今回は第二次世界大戦からこの歴史を振り返る。

ヌサンタラ

ヌサンタラとはマレー語/インドネシア語で、「島嶼」の意。14世紀のジャワ島の記録にすでにあり、現在の東南アジア島嶼部を指していたようだ。この概念がインドネシアの領土範囲として第二次世界大戦中に真剣に議論される。

1944年9月、日本の小磯国昭首相がインドネシアの独立を許可。翌年3月にスカルノらインドネシアの政治指導者60人を含めた独立準備調査会が設置される。

この調査会でインドネシアの領土範囲について45年5月から協議。政治家で歴史家でもあったモハンマド・ヤミンは14世紀のヌサンタラ概念を取り上げ、マレー半島もこれに入ると指摘した。6月の会議でスカルノはマレー半島については触れなかったが、7月になると一転してマレー半島はインドネシアの領土と言及。その理由として、英国領マラヤの人たちにインドネシア人意識があることや安全保障上マラッカ海峡を分断させるわけにはいかないなどを挙げた。スカルノはフィリピンもインドネシアの範囲であるとしたが、すでに独立していたためこれを尊重したいと述べた。

一方で、後の副大統領となるハッタはスカルノやヤミンの領土範囲を人類学的な観点から批判。オランダ領のみを領土とすべしと強く主張した。

その後、同会の委員全員による投票の結果、領土はマレー半島や北ボルネオも含める案が大多数を占めた。

戦後

第二次世界大戦中、マレー半島では日本軍の中国人に対する厳しい抑圧の一方、マレー人には優遇政策を実施。その結果、45年7月にマレー人の団結を訴え、マレー半島とインドネシアの統一を目的とした半島インドネシア人民協会(KRIS)が設立される。この中心人物がイブラヒム・ヤコブらだった。KRIS設立直後からヤコブはスカルノに書簡を送ってインドネシアへの参加の意思表示をしていた。

終戦直前、スカルノとハッタはベトナムのサイゴンへ日本軍の山下奉文陸軍大将とインドネシア独立に関する会談のためにシンガポールとタイピンを経由。帰りにタイピンでヤコブらはスカルノらと会談し、ここでもインドネシア入りの意思を示す。以後もヤコブは数度にわたり書簡を送付する。

インドネシアはその直後の45年8月17日に独立。しかし、マレー半島は含まれなかった。これについてはあまり詳細な研究が見当たらないのだが、おそらく2つのことが考えられるのではないか。まず、マレー半島は英国植民地であったため、インドネシアは日本軍撤退後にオランダと英国の二国と対決できる余裕になかったこと。また、当時のマレー半島には中国人の数がすでに相当数に上り、インドネシアに組み入れると深刻な国内問題になる可能性があったことが考えられる。

インドネシア独立後、KRISの勢力は衰え、代わりに統一マレー国民組織(UMNO)が誕生。マラヤ単独の独立を目指す。インドネシア側もオランダとの闘争に入り、マレー半島との統一の話は立ち消えた。*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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