2013年6月-国民戦線の誕生

5月5日に下院総選挙と州議会選挙が実施された。国民戦線(BN)は過半数を維持したものの、安定多数には遠く及ばなかった。今回は、与党連合BNがどのように誕生して今に至っているのかを見る。

連盟党の躍進

周知の通り、マレーシアはマレー人や華人、インド人などが共存する多民族国家。各民族は強いアイデンティティーを保持しているため、融合や同化が難しい。このため、独立前の指導者たちはこれを克服するため、政党同士の連合を結んだ。

1952年にクアラルンプール市議会選挙で統一マレー国民組織(UMNO)とマラヤ華人協会(MCA)が選挙協力を結んで連合を組んだ。これは互いに無視できない存在であることを認め、両民族が対立しては利が得られないと判断した結果であった。これをきっかけにその後の地方都市の選挙でも互いに協力しあい、54年にはマラヤ・インド人会議(MIC)も入った連盟党が結成される。これに伴い、民族別の政党が連合するという体制が「規定化」された。55年に行われたマラヤ連邦の立法評議会議員選挙では同党が圧勝。力を得た同党は英国と独立交渉を始めて57年に独立を獲得する。

連盟党は59年の独立後最初の連邦議会下院議員選挙、64年のマレーシア結成後初めての同選挙でも勝利を収めた。しかし、69年の総選挙の結果では、同党は89議席から66議席(得票率45.9%)に減り、野党勢力が躍進。同時に実施された州議会選挙ではクランタンやペナンで野党が実権を握り、その他数州でも野党が大きく勢力を伸ばした。

5月13日事件で

総選挙後の5月12〜13日には、与党のマレー人、野党の華人がそれぞれ勝利を祝う行進がクアラルンプールで行われた。13日には両者が激しく衝突し、数百人が死亡。連邦政府はただちに非常事態宣言を発令した。上下院議会及び州議会の停止、憲法の凍結となり、ラザク副首相の下、国家運営評議会をつくって全権を掌握した。

政府はその後、この事件の原因の一つとして各民族の経済格差をあげ、特にマレー人の経済を底上げするブミプトラ優遇政策が71年から実施される。

この政策を円滑に実施していくには、与党の基盤の強化が当然必要となる。そこで同副首相は、サラワク州やサバ州の政党や華人系の人民運動党、人民進歩党に加え、汎マレーシア・イスラーム党(PAS。78年に離脱)といった野党を取り込み、連合を結んだ。この結果、11政党の連合政党として、連盟党に代わって73年からBNとして始動。停止されていた議会は71年から再開したが、下院では民主行動党(DAP)など3つの小政党のみが野党という体制となった。

74年には野党が強いセランゴール州の野党勢力を抑えるため、同州から分離させてクアラルンプールを連邦直轄区に変更するなど与党に有利な改変を行った。これらが奏功して同年8月の総選挙ではBNが154議席中135議席を獲得して圧倒的勝利。州議会もすべてBNの手に渡った。

以後の総選挙でも安定多数を確保してきたが、BNの勢力も2008年を皮切りに勢力が衰え、今回の選挙では現有議席をも下回る結果となった。

*本来、参考文献などを挙げる必要がありますが、紙面の都合上、割愛しております。ご了承ください。

葉一洋

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